100名城:石川県金沢市の金沢城に行く

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白山比咩神社から約45分で移動。 金沢に来たのは2回目。前回は、2004年の11月。仕事で来ました。 そのときは、前泊して兼六園を見に行き、金沢城は外から写真を撮っただけでした。 今回は100名城スタンプを押して、城跡周辺を少し散策。 復元事業中とのことで、城の建物が妙にきれいでした。(14:20-14:40)

金沢城

ここにはかつて、加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」という寺院が建てられていました。 寺院といっても大阪の「石山本願寺」のような要塞でした。 1580年、織田信長が一揆を攻め落とした後、家臣の「佐久間盛政」に与えられ、 金沢城が築城されました。

1583年、賤ヶ岳の戦いで盛政が豊臣秀吉に敗れた後、 城は能登を領有していた「前田利家」に与えられ、利家によって改修が行われました。 1585年には、佐々成政と戦った功績で嫡男・利長に越中が与えられ、 3国にまたがる前田家100万石の原型ができました。

1599年、利家が死去すると、 領地は、加賀東部および越中を長男・利長が、能登を次男・利政が引き継ぎました。

1600年の関ヶ原の戦いで東軍についた利長は、 戦後、徳川家康より、利政の能登と丹羽長重や小早川秀秋の家臣が領有していた加賀西部が与えられ、 120万石の所領を獲得しました。

1639年、2代藩主利常(利長の弟)が隠居し、長男・光高に家督を譲る際、 次男・利次に越中富山藩を、三男・利治に加賀大聖寺藩を分与しました。

加賀前田家は外様大名ながら徳川将軍家と姻戚関係が強く、親藩に準ずる扱いを受け、 大名中最大の1025000石を領有しました。 13代藩主のときに、明治維新を迎えました。

兼六園は4代藩主綱紀のときに造営されたのがはじまりとされ、 その名は、寛政の改革で有名な松平定信により1822年に付けられたそうです。

前田利家公像

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右から菱櫓〜五十間長屋〜橋爪門(復元)

三の丸より

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石川門(現存)

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100名城スタンプと一之宮御朱印を求めて日帰り北陸旅:水無神社・白山比咩神社・金沢城・気多大社・七尾城





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