仙台城は、「伊達政宗」が仙台平野の西にある青葉山(最高点標高:202mの丘陵群)に築いた大規模な連郭式平山城。
多賀城から車で約1時間で着きました。
2009年にも来ており、そのときは城に向かう道が大渋滞でした。
今回は、そのときの道が1年前の震災の影響で通行止めになっていましたが、
迂回路が順調ですんなり到着できました。
仙台城といえば高石垣の印象がありますが、振り返ってみると、写真が一枚もありません。
上手く撮れてなくて捨ててしまったのかも。
何度も来ている割には、まともに城の痕跡を見ていないので、もう一度行かないとダメそうです。
仙台城
伊達政宗は、豊臣秀吉が小田原攻めをする前の段階で、
現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の置賜地方、宮城県の南部、
合わせて150万石近い領国を築いていました。
1590年小田原攻め後の「宇都宮仕置」により、会津は没収となり、72万石に減封されます。
その後、宮城県北部から岩手県南部で起こった「葛西大崎一揆」への関与を疑われ、
無罪にはなりましたが、1591年に、米沢からその一揆が起こった葛西氏・大崎氏の旧領へ、58万石で移封となり、
その地に「岩出山城」を築きました。
秀吉の死後、1599年、徳川家康は六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫を婚約させます。
これは秀吉の遺言を破るものでした。
1600年4月、家康による上杉氏への「会津征伐」が開始されると、
政宗はこれに従い、7月に白石城を奪還しました。
家康が、石田三成の挙兵を知り、急遽西上すると、
西軍の上杉氏と東軍の山形「最上義光」の間で「慶長出羽合戦」が勃発。
このとき政宗は、家康から上杉景勝の動きを封じ込めるという重要な役割を与えられ、
義光の援軍要請もあり、兵を派遣しますが、独自の行動をとります。
関ヶ原の戦いが徳川方勝利に終わると、圧倒的な戦力だった上杉軍は撤退。
最上氏は「奥州仕置」で失った旧領を回復しましたが、
伊達氏は4万石加増の62万石にとどまりました。
1601年、政宗は家康の許可を受け、仙台城を築城。
岩出山城から移り、明治維新まで伊達氏の居城となりました。
本丸の伊達政宗像
宮城縣護國神社
明治時代に本丸跡に建てられました。
本丸からの眺望
あまりに写真が少ないので、2009年9月に行った時のものを。