日本100名城:岡山県津山市の津山城に行く

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城下からの比高差約50mの鶴山(つやま)の上に、石垣を三段に整形し、本丸、二の丸、三の丸が築かれました。 明治以降はたくさんの桜が植えられ、現在は桜の名所となっているそうです。 もう桜は咲いていませんでしたが、全体的に清潔感があり、鮮やかな緑が大変美しい場所でした。(12:40-13:20)

津山城<美作国>

嘉吉年間(1441-1444)に美作国の守護大名・山名教清により、鶴山城が築かれたのがはじまり。 その後、応仁の乱で山名氏が衰退すると、城は廃城になりました。

備前国の守護代浦上氏の一族に仕えていた宇喜多直家は、備前の石山城(のちの岡山城)を本拠に勢力を拡大。 1575年には、事実上の下剋上を行い、その後、備前、美作、播磨、備中の一部を支配下に置きました。
1581年、父・直家の死去により家督を継いだ宇喜多秀家は、 織田信長の命令で、中国遠征の豊臣秀吉軍に組み込まれましたが、 本能寺の変後、秀吉と毛利輝元が和睦すると所領が安堵され、 備中東部から美作、備前を領する574000石の大名となりました。

秀家は、秀吉の寵愛を受け、五大老の一人にもなりますが、 秀吉の死後勃発した関ヶ原の戦いに西軍の主力として参加したことで、 戦後、八丈島に流刑。宇喜多氏は改易されました。

宇喜多氏の旧領の大部分は、関ヶ原の戦いの本戦で西軍から東軍に寝返った小早川秀秋に与えられ、 55万石で岡山城に入城。美作国も秀秋の所領となりますが、秀秋は1602年に死去し、小早川家は無嗣改易となります。

1603年、川中島藩主で海津城(のちの松代城)を居城としていた森忠政に美作国一国が与えられ、186000石で入封。 新城の建設地を現在地に定め、地名を「鶴山」より「津山」に改め、築城に着手しました。 城は、13年後に完成。天守、櫓、城門80余棟が建ち並ぶ近世城郭となりました。

1634年、忠政が死去すると、養子にしていた重臣「関成次」の子で忠政の外孫にあたる森長継が家督を相続。 1674年、長継三男・長武、1686年、長武甥(長継長男の子)・長成と継いでいきますが、1697年に、長成が嗣子なく死去。 長継十二男・森衆利(あつとし)が末期養子に立てられますが、 将軍拝謁の途上、生類憐みの令を批判したことで、改易されてしまいました。(のち子孫は備中西江原藩2万石で存続が許可)

広島藩の預かりを経て、徳川家康次男、結城秀康を祖とする越前松平家、 越前高田藩を1681年に改易された松平光長の養嗣子になっていた、 陸奥白河藩主松平直矩の三男松平宣富が、1698年に10万石で入城すると、 この津山松平家(秀康長男・忠直系)によって明治維新を迎えました。

本丸と備中櫓

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津山城跡案内図

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本丸からの眺望

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天守台

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裏下門

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二の丸の石垣?

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2012GW・中国四国1泊2日ドライブ旅行(1日目:伊和神社・津山城・中山神社・石上布都魂神社・吉備津彦神社・吉備津神社)





 

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