8:40着。内堀の中はすべて本丸で、本丸の中が上段、中段、下段に分かれています。 城内は緑も多くきれいでしたが、天守のビルは入場料がなんと800円。 中には入らず、入り口で100名城スタンプだけ押しました。
岡山城<備前国>
南北朝時代の正平年間(1346-1369)に名和氏の一族が城を築いたとされています。
1570年、「宇喜多直家」が、大永年間(1521-1528)より、
土着の金光(かなみつ)氏が、居城していた「石山城」を略奪し、
1573年に、ここに本拠を移しました。
直家は、備前守護代浦上氏の一族に仕えていましたが、
備前西部を中心に勢力を伸ばし、1575年には、事実上の下剋上を行い、
その後、備前、美作、播磨、備中の一部を支配下に置きました。
1581年、直家死去後、家督を継いだ子の「宇喜多秀家」は、
豊臣政権下で、父の遺領をほぼ引き継ぎ、574000石の大大名となりました。
1590-1597年にかけて、隣接する岡山に本丸を築き、石山城の本丸を二の丸内郭にする、
大規模な城の改修を行い、近世城郭の基礎を築きました。
築城には義父となった秀吉の意向が働いているといわれています。
しかし、秀家は関が原の戦いで敗れて八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易。
宇喜多家の旧領は、「小早川秀秋」に与えられ、55万石で岡山城に入りましたが、
秀秋は、1602年に21歳で早世。小早川家は無嗣改易となりました。
1603年、備前岡山の28万石は、姫路52万石の城主・池田輝政の次男、
「池田忠継」に与えられることになりました。
幼少のため、姫路から長男の利隆が執政代行として岡山城に入りました。
先の関ヶ原の戦い後、輝政の弟・長吉に因幡鳥取6万石が与えられており、
結果、池田氏一族が、西国の抑えを任されるかたちになりました。
(さらに1610年、輝政三男・忠雄に淡路洲本6万石が与えられました)
1613年、輝政死去により、利隆が姫路城に戻り、忠継が入城します。
しかし、1615年、忠継が死去し、輝政三男の「池田忠雄」が淡路洲本から岡山城に315000石で入りました。
(洲本藩は廃藩となり淡路一国は徳島藩蜂須賀家に与えられました)
(姫路藩では、利隆が1617年に死去。
子・光政は因幡伯耆32万石を与えられ、鳥取城に移封となりました。
藩領は、明石藩、龍野藩などに分割され、姫路藩には15万石で本多忠勝の子・忠政が入封。
播磨国は池田氏に代わって、譜代の本多氏一族によって固められることとなりました。)
1632年、忠雄の子・光仲が鳥取に転封となり、
入れ替わりで鳥取から宗家の「池田光政」が、315000石で入城。
以後、岡山城は、明治維新まで、光政系池田氏の居城となりました。
天守は昭和20年に空襲で焼失。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されました。
天守(南側)
往時の天守は昭和20年に空襲で焼失してしまい、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されました。
天守の礎石
往時にあった場所から移し、元の並びで展示されています。
月見櫓(現存)
表書院のあった本丸中段にあります。
宇喜多氏時代の石垣
発掘調査で発見されたもの。そのままの場所で展示されています。
天守(北側)
本丸中段の廊下門を出て、裏側からの天守です。
城の北を流れる旭川の向こうは後楽園
2012GW・中国四国1泊2日ドライブ旅行(2日目:岡山城・瀬戸大橋・丸亀城・田村神社・高松城・鳴門の渦潮)