2012年4月29日

100名城:香川県丸亀市の丸亀城に行く

現存12天守のひとつで美しい石垣の名城。

大手門をくぐった後、かなりの急坂を登って、三の丸、二の丸、本丸へ。本丸には小さい天守があります。 城からは瀬戸大橋や讃岐富士など見えて、とてもよいながめでした。

丸亀城<讃岐国>

1587年、豊臣秀吉の四国征伐後、讃岐一国は「生駒親正」に与えられ、 現在の東かがわ市にあった「引田城」に176000石で入城しました。

その後、親正は高松城を築城。1597年、支城として丸亀城の築城をはじめました(1602年完成)。 関ヶ原の戦いでは、親正は西軍寄りの態度を示しましたが、子の一正が東軍につき、所領を安堵されました。

1615年、一国一城令が出され、丸亀城は廃城。

1640年、親正から4代目のときに御家騒動が起こり、出羽矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封になると、 讃岐国は、伊予の西条藩、大洲藩、今治藩の分割統治になりました。

1641年に、「山崎家治」が、島原の乱などにおいての活躍が認められ、 肥後富岡(天草)から5万石で入封し、丸亀藩を立藩。 当初、寺院を宿所としましたが、その後、丸亀城の築城に着手しました。

山崎氏は3代で無嗣断絶。1658年に、同族の「京極高和」が播磨龍野より6万石で入城し、 以降「京極氏」が明治まで続きました。

丸亀城の天守はこの高和の頃に完成したと言われています。

京極氏

京極氏の源流「佐々木氏」は、鎌倉以前より近江にあり、近江源氏と称された家系。 鎌倉時代「佐々木信綱」は、4人の息子に近江を分けて継がせ、 四男・氏信を祖とする家系が京極氏とよばれるようになりました。

室町時代には、出雲、隠岐、飛騨の守護も務め、繁栄しますが、 応仁の乱後、近江で一族の争いや浅井氏の下剋上などもあり衰退しました。

戦国時代になると、京極高次、高知兄弟の活躍で再興。 関ヶ原の戦い後、高次は若狭一国を与えられ、高知は丹後一国を与えられました。 その後、高次の家系が、讃岐丸亀藩、多度津藩、高知の家系が但馬国豊岡藩の藩主として明治維新を迎えました。

こうした経緯もあり、丸亀藩は、近江の一部も飛び地として領有していました。

土橋より大手二の門、大手一の門と上に天守

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大手一の門

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三の丸石垣

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三の丸・月見櫓跡より讃岐富士

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天守

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京極家系図

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天守横から瀬戸大橋を望む

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感想追記(2018/09/15)

石垣と天守の組み合わせがすごく写真映えするカッコイイ城ですが、 手元にある撮ってきた写真は掲載しているものしかありません。

当時を振り返ると、さらっと天守だけ見て帰ってきてしまった憶えがあります。 100名城をまわりはじめたころ、一の宮のついでに訪れたので、 城のいいところをたくさん見逃してしまいました。

もう一度行きたい場所です。

2012GW・中国四国1泊2日ドライブ旅行(2日目:岡山城・瀬戸大橋・丸亀城・田村神社・高松城・鳴門の渦潮)






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