現存12天守のひとつで美しい石垣の名城。
大手門をくぐった後、かなりの急坂を登って、三の丸、二の丸、本丸へ。本丸には小さい天守があります。
城からは瀬戸大橋や讃岐富士など見えて、とてもよいながめでした。
丸亀城<讃岐国>
1587年、豊臣秀吉の四国征伐後、讃岐一国は長く秀吉に仕えてきた生駒親正に与えられ、
「引田城」に176000石で入城しました。その後、親正は高松城を築城。
1597年、その支城として丸亀城の築城をはじめます(1602年完成)。
関ヶ原の戦いでは西軍寄りの態度を示しましたが、子の一正が東軍につき、所領を安堵されました。
1615年一国一城令が出され、高松城を残して、丸亀城は一度廃城になります。
1640年、親正から4代目のときに御家騒動が起こり、生駒氏は出羽矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封になると、
讃岐国は、伊予の西条藩、大洲藩、今治藩の分割統治になりました。
1641年に、山崎家治が、島原の乱などにおいての活躍が認められ、
肥後富岡(天草)から5万石で入封し、丸亀藩を立藩。
当初、寺院を宿所としましたが、その後、丸亀城の築城に着手しました。
しかし、山崎氏は3代で無嗣断絶。
1658年に、同族の京極高和が播磨龍野より6万石で入城。
以降、京極氏が明治まで続きました。
京極氏
京極氏の源流佐々木氏は、鎌倉以前より近江にあり、近江源氏と称された家系。
鎌倉時代「佐々木信綱」は、4人の息子に近江を分けて継がせ、
四男・氏信を祖とする家系が京極氏とよばれるようになりました。
室町時代には、出雲、隠岐、飛騨の守護も務め、繁栄しますが、
応仁の乱後、近江で一族の争いや浅井氏の下剋上などもあり衰退しました。
戦国時代になると、京極高次、高知兄弟の活躍で再興。
各家が、藩主として明治維新を迎えました。
京極高次は、織田家に人質に出され、そのまま信長に仕えました。
本能寺の変後、明智方に付いたことで、豊臣秀吉の追討を受けますが、
豊臣秀吉の側室になった妹・龍子の嘆願により許されます。
1584年、近江国高島郡に2500石を与えられると、徐々に加増され、
1590年に近江八幡28000石、1595年には大津6万石を与えられました。
1587年、高次は妻に浅井三姉妹の次女・初を迎えています(三姉妹の長女は、豊臣秀頼の母・淀殿)。
こうしたことから、周囲から妻や妹の力で出世したと陰口を言われていたそうです。
1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城の戦いが有名。
高次は、西軍として北陸に進軍中に寝返り、大津城に戻って籠城します。
約一週間の戦闘の末、降伏しますが、この戦いで毛利元康、立花宗茂ら西軍の軍勢を足止めしたことが、
関ヶ原の戦い後、家康に高く評価され、若狭一国85000石に加増転封されました。
1634年、子の忠高のときには、毛利氏に対する抑えとして、
京極家にゆかりのある出雲・隠岐26万石に加増転封されます。
1637年、忠高は嗣子なく死去し、改易されかけますが、
甥の高和が龍野に6万石を与えられ、大名としての存続を認められました。
こうした経緯もあり、丸亀藩は、近江の一部も飛び地として領有していました。
土橋より大手二の門、大手一の門と上に天守
大手一の門
三の丸石垣
三の丸・月見櫓跡より讃岐富士
天守
京極家系図
天守横から瀬戸大橋を望む
感想追記(2018/09/15)
石垣と天守の組み合わせがすごく写真映えするカッコイイ城ですが、
手元にある撮ってきた写真は掲載しているものしかありません。
当時を振り返ると、さらっと天守だけ見て帰ってきてしまった憶えがあります。
100名城をまわりはじめたころ、一の宮のついでに訪れたので、
城のいいところをたくさん見逃してしまいました。
もう一度行きたい場所です。
2012GW・中国四国1泊2日ドライブ旅行(2日目:岡山城・瀬戸大橋・丸亀城・田村神社・高松城・鳴門の渦潮)