東京の自宅を3:15に出て、途中、浜松SA、草津PAで休憩し、篠山城到着は9:30。 6時間15分で着きました。ここまで渋滞なし。GWの混雑がうそのようでした。
篠山城【丹後国】の歴史
1609年、徳川家康は、松井松平家の「松平康重」を常陸笠間城より丹後八上城に移すと、
すぐに山陰道の要衝であるこの地に城を築き、八上城を廃すことを命じました。
豊臣氏をはじめとする西国大名をおさえるのが目的で、
城は、天下普請とされ、縄張りを藤堂高虎が行い、普請総奉行を池田輝政が努めて、
6ヶ月で完成しました。
1619年、康重が、大坂平野南方の要衝、和泉岸和田に移封になると、
藤井松平氏、形原松平氏と継ぎ、1749年に丹波亀山より青山氏が入封した後は、
そのまま明治維新を迎えました。
松井松平家
今川家家臣から桶狭間の戦い以降、家康の家臣となった松井忠次(松平康親)の家系で、 1583年、子の康重が継ぎ、家康の関東移封に伴い、関東で大名となりました。 康重には家康の落胤説があります。 その後は、十数度転封を繰り返し、明治維新は川越藩で迎えました。
藤井松平家
松平宗家5代目長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。なお、家康は宗家9代目。 現在の愛知県安城市藤井町を拠点に宗家に仕えました。 1601年、大名に列し、常陸国土浦藩35000石を領しました。 その後、出羽上山藩、信濃上田藩で二家が、明治維新を迎えました。
形原松平家
松平宗家3代目信光の四男・与副を祖とする松平氏の庶流。 出身の形原(かたのはら:現在の愛知県蒲郡市形原)が良港であったことから、 徳川水軍の一翼を担っていたと考えられています。 1618年、三河形原藩1万石で大名となり、摂津高槻藩、下総佐倉藩、摂津高槻藩を経て、 1748年、篠山藩から丹波亀山藩に移封後は、そのまま明治維新を迎えました。
青山家
三河の国額田郡百々城(どうどうじょう)を拠点に松平氏に仕え、
関ヶ原の戦い後、大名に列しました。
宗家は、篠山藩6万石で、分家は、美濃郡上八幡48000石で明治維新を迎えました。
東京の青山通りは青山氏の屋敷があったことがその名の由来で、
北面に宗家、南面に分家の下屋敷があったそうです。
訪問記
堀、石垣、天守台など綺麗に整備されていました。
天下普請で築かれた城の証拠に、石垣にいろいろな大名の刻印が確認できました。
全体的にさっぱりした印象でした。
(9:30-10:45)
追記
篠山城は城下町もよく整備されているようで、 今振り返ると、見逃したところも多いです。もう一度登城したい城です。 (2018/9/22)
大手表門前
天守台
本丸より
大書院
二の丸より。木造復元。
本丸の石垣
二の丸より。
二の丸の石垣
外堀から天守台
外堀
2012_7・中国地方1泊3日ドライブ旅行(1日目:篠山城、粟鹿神社、竹田城、出石神社、籠神社)