100名城:兵庫県朝来市の竹田城に行く

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粟鹿神社【但馬国一宮】から移動しました。城に向かう道中、雨が強くなって心配しましたが、 ちょうど駐車場に着いた頃に傘がいらない程度になり、その後は、時折、晴れ間ものぞくようになりました。

竹田城【但馬国】の歴史

播磨国との国境にある竹田城は、播磨進出の拠点として、 1431年から1443年頃に築城されたと考えられており、 但馬守護「山名氏」家臣の「太田垣氏」が代々居城していました。

山名氏

山名氏は、名門新田氏の一門。南北朝時代、新田本家とは異なり足利尊氏に従うと、 はじめに「山名時氏」が、1337年、伯耆守護に任じられました。 時氏は南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込み、自勢力の拡大に注力すると、 1379年には一族で、紀伊・美作・但馬・伯耆・備後・丹波・和泉・丹後・出雲・隠岐・因幡の守護となります。

明徳の乱で衰退、嘉吉の乱で復活

その結果、3代将軍義満に危険視されるようになり、 1391年の一族の内紛をきっかけに起こった「明徳の乱」後、但馬・伯耆・因幡の三国に減らされましたが、 1399年、代わって勢力を拡大した大内氏の「応永の乱」の鎮圧に貢献すると、備後・安芸・石見を与えられて再興。 1441年、赤松氏が起こした「嘉吉の乱」後は、赤松氏の播磨、備前、美作が与えられ、ふたたび勢力を拡大しました。

応仁の乱で衰退

しかし、1467年の応仁の乱後は、赤松政則が旧領三国の守護を奪還。 出雲の尼子氏、周防の大内氏、備前守護代の浦上氏らの圧迫を受けて衰退していき、 宗家の但馬国においても、竹田城の「太田垣氏」をはじめとする山名四天王と呼ばれる重臣が、 実質的に領国を分割統治する状態になりました。

織田軍と毛利軍に挟まれ降伏

次第に、織田軍と毛利軍に挟まれるかたちになり、 ついには、織田軍の中国攻め総司令官・豊臣秀吉により、 山陰道及び但馬国平定の指揮を任された豊臣秀長に攻め込まれ、 有子山城の「山名祐豊」、竹田城の「太田垣輝延」ともに降伏、開城しました。 (この後、山名氏の当主は実質因幡鳥取城の豊国となりました)

赤松広秀

その後、竹田城の城主は、1580年に、秀長家臣の「桑山重晴」、 1585年に、「斎村政広(赤松広秀)」と替わります。

「赤松広秀」は、かつて山名氏と争った赤松氏の末裔で、かつては播磨龍野城主でした。 関が原の戦いの際、本戦で西軍が敗れた後に、東軍に寝返りましたが、 寝返った武将のなかで唯一徳川家康に切腹を命じられ、自刃しました。 赤松氏は、庶流の摂津有馬氏の本家が筑後国久留米藩主、 分家が下野国吹上藩主として明治維新を迎えました。

城は1600年に廃城になりました。

訪問記

まさに天空の城。ここはいいお城と聞いていましたが、ほんとうによかったです。語彙力がないのが情けないです。 観光客もたくさんいましたが、広いので気になりませんでした。むしろ彼らの話す関西弁が心地よく感じました。
(13:00-14:00)

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正門

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天守台より南二ノ丸および南千畳を望む

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北千畳より南千畳を望む

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本丸遠景

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大手門

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竹田駅

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2012_7・中国地方1泊3日ドライブ旅行(1日目:篠山城、粟鹿神社、竹田城、出石神社、籠神社)





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