100名城:福岡県福岡市の福岡城に行く - takerokero blog

100名城:福岡県福岡市の福岡城に行く

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訪問日は2019年6月15日。2012年8月以来2度目の福岡城訪問です。 前回は一の宮神社の巡拝がメインで、筥崎宮や住吉神社のついででした。 そのときは、100名城スタンプを押し、天守台周辺を見ただけで帰ったので、 あまり印象も残っていないのですが、城内が広くてくたびれたことは、おぼろげに覚えています。

今回は城のなかをしっかり見て回るつもり。でも前回の経験で闇雲に歩き回るのは危険な感じがしたので、 旅行前から地図を見て、まわり方を研究してきました。 車は城内のタイムズ三の丸駐車場に停め、下之橋御門から一度城外に出て、上之橋御門から再入城。本丸を目指すルートで臨みます。

その前に少しだけ城の勉強をしておきましょう。

福岡城の歴史

播磨国で小寺氏に仕えていた黒田孝高(官兵衛)、長政親子は、 豊臣秀吉が、織田信長の命で中国攻めをはじめた頃よりその家臣となり、 第二次鳥取城攻め、備中高松城の水攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、 小牧・長久手の戦い、四国征伐など数々の戦で活躍。 1587年、九州平定後、豊前中津に16万石を与えられました。

1598年、秀吉が死去した後は、徳川家康に接近。 関ヶ原の戦いで東軍勝利を決定づけた「小早川秀秋の寝返り」は、黒田長政の調略によるものでした。 戦場においても、石田三成の家臣、名将・島左近を討ち取ったのは黒田隊といわれており、 その戦功により、筑前名島に523000石を与えられました。

名島城は、小早川秀秋(羽柴秀俊)の養父、小早川隆景が築いた城でしたが、 手狭だったことから、長政はすぐに新城建設に着手します。 そして、1601年より7年かけて現在地に福岡城を築きました。 福岡という名前は、このときに黒田家にゆかりのある備前国福岡にちなんで付けられました。

以後、福岡藩黒田家の居城として、明治維新まで存続しました。

幕末の福岡藩

ところで、福岡藩はこれだけの大藩で、「薩長土肥」といわれる雄藩とも近い場所にありますが、 明治維新では目立ちません。何をしていたのか不思議に思い、少し調べてみました。

藩祖孝高の血統は6代継高で途絶えており、幕末の11代藩主長溥(ながひろ)は、 薩摩藩島津家からの養嗣子。1834年、24歳で藩主になりました。 先代の養父・斉清(なりきよ)は幼くして藩主になったこともあり、政治に関与していませんでしたが、 当時、藩の財政は破綻寸前だったこともあり、立て直しのため親政を開始します。

長溥は、斉清の影響もあり、蘭癖大名と呼ばれるほど、西洋技術の習得に熱心で、 1853年のペリー来航時には幕府に開国を提案するなど、開明な人物であった一方、 実父・島津重豪(しげひで)は11代将軍家斉の岳父、 養父・黒田斉清の父・斉隆は一橋徳川家からの婿養子で、家斉の実弟であることから、将軍家とも縁の深い人でした。

第一次長州征伐では、開明的な知見から幕府と長州藩の無用な争いを避けるよう、薩摩藩の西郷隆盛と謀り、 征討軍総督、尾張藩の徳川慶勝に解兵の決定をさせますが、これが幕府から長州側につくと疑いを持たれることとなり、 1865年、乙丑の獄(いっちゅうのごく)と言われる、藩内の勤皇派に対する大弾圧を実施します。

しかしその後、時代は激変。薩長同盟、第二次長州征伐、大政奉還とすすみ、1868年に戊辰戦争が始まったところで、 慌てて新政府側につきますが、先の弾圧により、藩内に有力な人材を失っていました。

1871年には、長溥から家督を継いでいた伊勢津藩藤堂家からの養子・長知が、 日田知藩事の松方正義により、新政府発行の紙幣の偽造を告発され、廃藩置県直前に知藩事を解任される事態となります。 偽造は、財政難の他藩でも多く行われていましたが、ぎりぎりまで佐幕派であったことが災いし、見せしめ的な処罰だったといわれています。

訪問記

時刻は12:00。訪問開始です。

名島門

タイムズ福岡城三の丸駐車場から一番近くのところにポツンと建っている遺構は、福岡城のものではなく、名島城の脇門。
福岡城築城に伴い、名島城が廃城されるとき、家臣の林掃部(はやし・かもん)にさげ渡され、 邸宅の門として使用されていたものだそうです。

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こちらが表側。

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旧母里太兵衛邸長屋門

名島門のところから、城内を貫く道路に出たところにあるこちらも、福岡城の遺構ではありません。 現在の天神二丁目、野村證券福岡支部の場所にあった武家屋敷の長屋門です。 母里太兵衛(もり・たへい)は黒田孝高(官兵衛)・長政親子に仕えた勇将。酒豪でもあり、「黒田節」のモデルだそうです。

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黒田如水隠居地跡

城内の北西の小高い丘部分には、隠居した官兵衛の屋敷があったと言われています。 説明板には、本丸より高かった場所だったのを削って低くしたと書かれていました。

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下之橋御門と古時打櫓(伝・潮見櫓)

下之橋御門は、1805年に建てられたものが平成12年まで一部現存していましたが、不審火で被災し、平成20年に復元されました。 伝・潮見櫓と書かれている櫓は、大正時代に一度城外に移築され、昭和31年に再移築されたもの。

ただ、実際の潮見櫓はこの場所にあったのではなく、ここから300m西に行った三の丸北西角にあったそう。 また、平成3年の調査の結果、ここに建つ櫓は潮見櫓ではなく、 本丸の裏御門の脇の古時打櫓(ふるときうちやぐら)の可能性が高いことがわかったそうです。

ということで、写真は江戸時代にはなかった眺め。

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下之橋を渡って城外より。

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福岡城堀石垣

堀沿いの歩道を東に歩いて行くと、地下鉄の入口のようなものがありました。この真下には石垣があります。 「かつての堀は今よりも広く、水堀の底にあった石垣がそのままの場所で、保存されている」と案内のおじさんが説明してくれました。

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上之橋御門

城があった頃、城への入口は3つあり、そのうち、こちらが正門だったようです。 まっすぐ行って突き当たりを左に曲がるのが当時の道ですが、今はその手前を右に曲がって入ります。 当時の地図を見ると右に曲がる道はないので、堀を少し埋め立てて造ったのではないかと思われます。

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今の堀も十分広くて立派です。

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鴻臚館跡

門を入った先は、三ノ丸で江戸時代は侍屋敷が建っていたエリアですが、 古代においては、ここに鴻臚館がありました。奥に見える建物は鴻臚館跡展示館。 ここは珍しい、福岡城跡と鴻臚館跡の二重の史跡です。

前回訪問時は、古代のことはあまり興味がなく、スルーしていたのですが、 今回はこの後水城、基肄城、大野城にも行く予定なので、興味深く見学。

鴻臚館とは大宰府の出先機関で、7世紀後半から11世紀半ばまで存在していたと考えられています。 中国や新羅からの外交使節をもてなしたり、遣唐使などの宿泊地として利用されたようです。

鴻臚館は、長らく別の場所にあったと考えられていましたが、大正15年に中山博士というかたが福岡城説を唱え、 昭和62年の発掘調査によって、この地であることが判明したそうです。つい最近のこと。

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鴻臚館跡展示館は、発掘調査をした状態をそのまま屋根で囲った施設。100名城スタンプもここにあります。

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奥の建物は回廊跡の上に建物を復元したもの。

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捨てられた陶磁器が出土したときのイメージ。

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展示館の南側も発掘調査がされており、礎石のみ復元しています。

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それでは、城巡りに戻りましょう。

東御門跡

展示館の西側にあるこの場所は、三の丸と東二の丸をつなぐ門。西側(右)の石垣上に革櫓、東側(左)には炭櫓があったそうです。 城内には40基以上の櫓があったそうですが、いまはほんのわずかしか残っていません。

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現地説明板。

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広い入口は福岡城の中でも印象的。

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東二の丸

入口を入って前方左手にみえる正面の櫓は、本丸北東に建つ祈念櫓。 現存の遺構ですが、大幅な改変をされているか、あるいは、ここにあるものは違う場所にあった櫓だそうです。 手前の現在ラグビー場になっている部分には二の丸御殿があったそう。 また、古地図と比較すると、ラグビー場の南半分との間には、貯水池だった水の手とを区切る石垣がありましたが、 これは完全に取り壊されています。

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右手(北側)の石垣上からは、現在テニスコートと平和台陸上競技場になっている三の丸が見下ろせます。

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扇坂御門跡

真っ直ぐ(西方向に)歩いていくと扇坂御門跡。東二の丸と二の丸をつなぐ門です。

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二の丸

二の丸は本丸の北側を西側を囲うL字形になっています。扇坂御門を入ったところの北側は梅園になっています。

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表御門跡

二の丸から本丸への入口。

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本丸側から。

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本丸

本丸にはかつて本丸御殿がありました。

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本丸の東側を南に歩いていくと正面にみえる石垣の上には、かつて月見櫓が建っていました。 そのむかし、石垣の下にある水の手の池に月が映って見えていたのかもしれません。

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鉄御門跡

天守台への入口。

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道幅が狭くて厳重な感じ。

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埋門。くぐると天守台の南のスペースにいきますが、昔は通常閉ざされていたようです。ここは右の階段を上って天守台へ。

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天守台礎石。 古地図に天守が描かれたものがなく、実際に天守が建っていたかどうかはよくわかっていないそうですが、 最近は一時期において建っていたという説が有力になっているようです。

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東の方向。眼下には、中天守の石垣とその奥に小天守の石垣がありますが、草に覆われてわかりづらい状態した。

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北西の方向。いま上がってきた鉄御門の石垣の向こうに福岡タワーなどが見えました。

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先程の埋門をくぐって反対側から。天守南のスペースは、まわりを武具櫓で囲われていました。 武具櫓というのだから武器庫だったのでしょうか。

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天守南のスペースから見た天守台(前回訪問時)

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武具櫓門を出て、振り返ったところ。右の石垣の上には鉄砲櫓がありました。

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裏御門跡の前にある本丸の地図。イメージを膨らますのに十分なもの。

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裏御門跡

二の丸から本丸に入る門。左奥の石垣の上が、現在下之橋御門のところにある古時打櫓が本来あった場所です。

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南の丸

二の丸を南下していったところにある郭。入口の冠木門は復元です。

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「南の丸多聞櫓」は福岡城で唯一築城当時の位置に現存する櫓です。

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以下は前回訪問時の写真。

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水の手御門跡

二の丸に戻り、天守の南側の石垣を左手にして、本丸東側の水の手の方向に出る門。

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本丸南西角の石垣。上には武具櫓が石垣に沿って建っていました。福岡城の中でも場所的にマイナーなところですが、 このあたりの石垣には迫力が感じられました。

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ここで、ずっと降っていた雨が止み始め、空も明るくなってきました。 天守台からの景色をもう一度見たいと思い、本丸の外側を反時計まわりで歩き、再び扇坂御門のところから、 先程と同じルートで天守台まで戻りました。
その後、裏御門から本丸を出て、二の丸を北上。下の写真は西側の二の丸から本丸の石垣を撮ったもの。

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松木坂御門跡

三の丸から二の丸に入る北西の門跡。このあたりは、江戸時代とは大分形状が変わっているようです。

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まとめ

滞在時間は3時間オーバー。ある程度時間が掛かることは予想していましたが、思った以上でした。 建物の遺構は少ないですが、これだけの大きさで、元の城の形がわかる状態で石垣や堀が残されているのは立派。 古地図と見比べて歩くのは楽しかったです。 過去に何気なく訪れてしまった100名城を再訪するのもよいことがわかったので、今後、他の城も更新していきたいです。

続100名城:福岡県の水城(みずき)に行く





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