大分府内城【豊後国】の歴史
鎌倉時代から戦国時代にかけて、豊後国(大分県)、筑後国(福岡県南部)の守護だった
「大友氏」は、大友氏館を建て、これを本拠にしていました。
府内城の名前は、この時代より大分市の中心部が府内とよばれていたことから、
そう付けられたといわれています。
大友氏は、最盛期には、豊前、肥前、肥後、筑前一国と日向、伊予の半国まで勢力を広げましたが、
1570年以降、龍造寺氏や島津氏との争いに敗れ、衰退。
豊臣秀吉に臣従して生き残りましたが、
1593年、22代当主の大友義統が文禄の役の失態を咎められ、改易されました。
代わって「早川長政」が代官として入封。翌年、13000石の大名として取り立てられますが、
1597年、慶長の役で落ち度があったとして改易。
1597年、「福原直高」(石田三成の妹婿、赤松氏の一族)が12万石で入封すると、
大友氏館の北西に新しい城「荷揚城」(府内城)を築城し、1599年に完成させました。
しかし、秀吉が死去し、石田三成が失脚すると、
五大老筆頭の徳川家康に府内領を没収されてしまいました。
1599年、早川長政が復帰しますが、1601年、関ヶ原の戦いで西軍につき、改易。
1601年、かつて秀吉の家臣で、関ヶ原の戦いでは黒田如水に誘われて東軍に転じた「竹中重利」が、
豊後高田より35000石で入封し、府内藩を立藩。
城の改修を行って現在の規模とし、港や城下町を整備して、現在の大分市の発展の基礎を築きましたが、
幕府が家光の代になり、鎖国令を発すると、跡を継いだ重義は密貿易などの不正を訴えられ、改易・廃絶。
1634年、日光東照宮の造営副奉行を務めた「日根野吉明」が下野壬生より入封しましたが、1656年、無嗣断絶。
1658年、吉明の義理の甥にあたる、松平忠昭(大給松平家)が、豊後高松より、2万石で入封し、
以後、明治維新まで続きました。
訪問記
10:00着。大分の中心部。道を挟んで南に県庁、西に市役所があります。西の丸部分に文化会館が建てられ、本丸部分が駐車場になっていました。 頑張って少しまわりを歩いたのですが、雨がすごくて、落ち着きませんでした。
土橋と大手門
土橋から左側の内濠
本丸跡
現在、西丸、東丸との間の濠は埋められ、大きな敷地になっています。