100名城:広島県広島市の広島城に行く

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厳島神社【安芸国一宮】から移動しました。16:30着。

広島城【安芸国】の歴史

この地は、承久の乱以降、安芸国守護の武田氏によって治められていましたが、 戦国時代に毛利氏に滅ぼされ、以後、毛利氏が支配するようになりました。 毛利氏は、長年山間部の吉田郡山城を居城としていました。

毛利家は、1563年、元就の孫の毛利輝元が家督を継ぎ、1571年に元就が死去した後、実権を握ります。 1576年、第4次石山合戦において、石山本願寺を援助したことから、織田信長と対立するようになり、 1577年、信長は豊臣秀吉に中国攻めを命じます。

以後、秀吉との戦いは6年続きましたが、1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利すると、秀吉に臣従しました。

1589年、輝元は交通の要衝の太田川下流域に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。 小田原征伐後は、112万石の所領を安堵され、1591年にここに移りました。1597年には五大老に任じられます。

しかし、1600年、関ヶ原の戦いで西軍総大将を務め、戦後は周防・長門2ヶ国の29万8千石に減転封。 代わって福島正則が498000石で入城しました。

正則は、1619年、城の改築を武家諸法度違反と咎められて改易され、信濃高井野へ転封。 浅野長晟(ながあきら)が紀州和歌山から42万石で入城し、以後「浅野家」が明治維新まで続きました。

浅野家

浅野家は、元々織田の弓衆で、のちに秀吉の正室となる「ねね」とその妹「やや」を養女にとった家。 長晟の父・長政は、「やや」の婿養子として浅野家に入り、家督を相続した人物。 豊臣政権では、五奉行筆頭。1593年、東国大名の取次役として、甲斐府中21万石を与えられました。

関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川秀忠に従軍しました。 長男の幸長は、岐阜城の戦いで活躍し、紀伊和歌山37万石を与えられますが、1613年に38歳で死去。 幸長に男子がなく、次男の浅野長晟が浅野家の家督を継ぎました。

ちなみに、三男・長重は、のちに赤穂藩53500石の藩主になりますが、 3代目の長矩のとき、忠臣蔵の「赤穂事件」で改易となりました。

福島正則

尾張国の桶屋の息子でしたが、母が秀吉の叔母だったため、秀吉の小姓として使えるようになりました。 1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番の大功を挙げ、1595年には清州24万石を与えられました。 朝鮮出兵を契機に石田三成と険悪になり、関ヶ原の戦いでは西軍の宇喜多秀家と戦いました。

1619年、信濃高井野へは45000石で入封しますが、1620年、家督を相続した嫡男が早世したため、25000石を幕府に返上。 1624年、正則が64歳で死去すると、家臣団が幕府の検使が来る前に火葬したため、また武家諸法度違反となり、20000石も没収されました。

訪問記

天守の中は資料館になっていました。こうした資料館はがっかりなものも多くありますが、 ここは見ごたえのある展示がされていて、広島の町の歴史がよくわかりました。

天守

元の天守は、昭和20年に米軍によって広島に投下された原子爆弾により倒壊。 現在のものは、昭和33年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。

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広島大本営跡(本丸上段)

日清戦争時、ここに大本営が置かれました。以後も建物は「大本営跡」として残されていましたが、 原爆により倒壊しました。

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表御門と御門橋。平櫓。

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太鼓櫓

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2013夏・中国四国2泊3日ドライブ旅行(1日目:玉祖神社-岩国城-厳島神社-広島城)





 

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