2013年8月14日

100名城:広島県広島市の広島城に行く

厳島神社【安芸国一宮】から移動しました。16:30着。

広島城【安芸国】の歴史

この地は、承久の乱以降、安芸国守護の武田氏によって治められていましたが、 戦国時代に毛利氏に滅ぼされ、以後、毛利氏が支配するようになりました。 毛利氏は、長年山間部の吉田郡山城を居城としていました。

毛利家は、1563年、元就の孫の「毛利輝元」が家督を継ぎ、 1571年に元就が死去すると、実権を握りました。 1576年、第4次石山合戦において、石山本願寺を援助したことから、 織田信長と対立するようになり、1577年に信長は豊臣秀吉に中国攻めを命じます。

以後、秀吉との戦いは6年続きましたが、秀吉が本能寺の変の報を得て、和睦が成立し、 1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利すると、以後、秀吉に臣従しました。

1589年、交通の要衝の太田川下流域に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。 小田原征伐後は、112万石の所領を安堵され、1591年にここに移りました。 1597年には五大老に任じられます。

しかし、1600年、関ヶ原の戦いで西軍総大将を務め、周防・長門2ヶ国の29万8千石に減転封。 代わって「福島正則」が498000石で入城しました。

正則は、1619年、城の改築を武家諸法度違反と咎められて改易され、信濃高井野へ転封。 「浅野長晟(ながあきら)」が42万石で入城し、以後「浅野家」が明治維新まで続きました。

浅野家

浅野家は、元々織田の弓衆で、のちに秀吉の正室となる「ねね」とその妹「やや」を養女にとった家。 長晟の父・長政は、「やや」の婿養子として浅野家に入り、家督を相続した人物。 豊臣政権では、五奉行筆頭。1593年、東国大名の取次役として、甲斐府中21万石を与えられました。

関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川秀忠に従軍しました。 長男の幸長は、岐阜城の戦いで活躍し、 紀伊和歌山37万石を与えられますが、1613年に38歳で死去。 男子がなく、次男の浅野長あきらが浅野家の家督を継ぎました。

ちなみに、三男・長重の家は、のちに赤穂藩53500石の藩主になりましたが、 いわゆる赤穂事件により、改易となりました。

福島正則

尾張国の桶屋の息子でしたが、母が秀吉の叔母だったため、 秀吉の小姓として使えるようになりました。 賤ヶ岳の戦いでは一番の大功を挙げます。 1595年には清州24万石を与えられました。 朝鮮出兵を契機に石田三成と険悪になり、 関ヶ原の戦いでは西軍の宇喜多秀家と戦いました。

1619年、信濃高井野へは45000石で入封しますが、 1620年、家督を相続した嫡男が早世したため、25000石を幕府に返上。 1624年、正則が64歳で死去すると、家臣団が幕府の検使が来る前に火葬したため、 また武家諸法度違反となり、20000石も没収されました。

訪問記

天守の中は資料館になっていました。 こうした資料館はがっかりなものも多くありますが、 ここは見ごたえのある展示がされていて、広島の町の歴史がよくわかりました。

天守

元の天守は、昭和20年に米軍によって広島に投下された原子爆弾により倒壊。 現在のものは、昭和33年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものです。

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広島大本営跡(本丸上段)

日清戦争時、ここに大本営が置かれました。以後も建物は「大本営跡」として残されていましたが、 原爆により倒壊しました。

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表御門と御門橋。平櫓。

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太鼓櫓

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2013夏・中国四国2泊3日ドライブ旅行(1日目:玉祖神社-岩国城-厳島神社-広島城)






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