100名城:愛媛県松山市の松山城に行く

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松山城は、天守をはじめ21棟が重要文化財になっている城です。 ロープウェイ(リフト)は、8:30に運航開始ですが、乗り場にはその15分前に到着しました。 松山の人気スポットを混みあう前に見ることができてよかったです。

松山城

豊臣政権で伊予国正木城10万石の大名だった「加藤嘉明」は、 関ヶ原の戦いの後、20万石に加増されたのをきっかけに、 1602年、現在の地、勝山に築城をはじめ、後にこれを松山城と命名しました。

加藤嘉明は、三河出身で流浪の末、長浜城主の頃の秀吉に仕えるようになり、 数々の合戦で活躍してきた武将です。 美濃出身でのちの小田原征伐後に、 甲府24万石の大名となった加藤光泰の父に見出され、 加藤姓を名乗るようになったともいわれています。
秀吉死去後は石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは三成の本陣と戦いました。

しかし、松山城完成間近の1627年、嘉明は、会津藩蒲生氏の混乱のあおりを受け、 会津に転封になります。 この会津転封は、かつてともに伊予を領有し、 当時伊勢国津城にいた藤堂高虎が指名されていましたが、高虎がこれを固辞し、 嘉明を推薦したといわれています。

入れ替わりで会津より「蒲生忠知」が入城しましたが、忠知は1634年に病死し、蒲生家は断絶。 1635年、家康の異父弟・松平定勝(久松松平家)の次男・「松平定行」が伊勢桑名より15万石で入城すると、 以後、松山藩久松松平家が明治維新まで続きました。

天守は創建時5重だったものを1642年に定行が3重に改築しました。 1784年に落雷で焼失しましたが、1854年に12代目の勝善が再建し、これが現在の天守になります。

石垣。上に見えるのは隠門続櫓

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太鼓櫓(復元)

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戸無門(現存)

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隠門(現存)

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筒井門(復元)

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戸無門から筒井門を見たところ

奥の隠門が見えないようになっている。侵入者の注意を筒井門に向けさせ、そこを破ろうとする敵を隠門から打ち出て、背後から襲う戦略。また、門の上は続櫓になっていて、そこからも攻撃が可能。

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隠門続櫓(現存)

門の内側より。

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太鼓門(復元)

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本丸

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井戸

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紫竹門(現存)

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野原櫓(現存)

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一ノ門(現存)

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二ノ門(現存)

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三ノ門(現存)

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筋鉄門東塀(現存)

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筋鉄門(現存)

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天守広場より小天守(復元)

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小天守内部

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大天守からの眺望(南)

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大天守内部

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仕切門(現存)

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本壇配置図

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小天守(左)大天守(中)一の門南櫓(右)

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本丸から見た太鼓櫓(復元)

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2013夏・中国四国2泊3日旅行(3日目:松山城、湯築城、今治城、大山祇神社など)





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