100名城:愛媛県今治市の今治城に行く

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13:00着。1980年に建てられた模擬天守は、外観はかっこいいのですが、中はコンクリートで息苦しく感じました。 一方、2007年に可能な限り江戸時代の史実に基づき復元されたという鉄(くろがね)御門は大変立派でした。

今治城【伊予国】

豊臣政権で伊予国板島(現:宇和島)で7万石を領有していた築城の名手、藤堂高虎は、 1600年、関ヶ原の戦い後、20万石に加増されると、今治の「国分山城」に移りました。 しかし、山城は不便なため、1602年に現在の地に築城をはじめ、1604年に完成。 現在は内堀しかありませんが、当時は三重の堀に海水を引き入れた大規模な海城でした。

1609年、藤堂高虎は伊勢の津に移封になりますが、 養子の藤堂高吉は家康の命により今治に留まります。

1635年、伊予松山藩の蒲生氏改易に伴い、久松松平家の松平定行が伊勢桑名から松山城に入城すると、 それと同時に藤堂高吉は領地替えとなり、定行の弟の松平定房が伊勢長島より今治城に3万石で入城。 以後、松山藩、今治藩は、久松松平氏の両家によって明治維新を迎えました。

名張藤堂家

藤堂高吉は、実父が丹羽長秀で、幼名を仙丸といいました。 信長の死後、柴田勝家と対立した秀吉は、長秀を味方に引き入れる目的で仙丸を弟・秀長の養子としますが、 天下統一が近づくと、仙丸を排除し、姉の子である羽柴秀保を秀長の後継者にしようと画策します。

仙丸の才能を買っていた秀長は怒りますが、結局、仙丸は秀長の家臣だった藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉と名乗りました。 このとき秀長から1万石を贈与されています。関ヶ原の戦いでも活躍し、家康から高虎とは別に1万石を加増されました。
高吉は、当初、藤堂家の跡継ぎとして迎えられましたが、1601年、高虎に実子・高次が生まれるとその話は消滅。 高虎の死後は、高次からも冷遇を受け、1635年、今治から伊勢に移った後は、高次の命で伊賀の名張に左遷されました。
しかし、これにもめげず、ここで現在の町の礎となる城下町を作り上げました。 名張藤堂家の祖となり、子孫は現在まで続いているそうです。

久松松平家

松山藩主の松平定行と今治藩主の松平定房の父、松平定勝は母が於大の方(伝通院)。家康とは異父兄弟になる人。 家康の父・松平広忠は、家康がまだ幼少の頃に、於大の方の実家・水野家が、 駿河の大大名・今川家と絶縁して織田方についたことをきっかけに、於大の方と離縁します。 当時の松平氏は、今川氏の影響を強く受けており関係を良好に保つ必要がありました。
その後、於大の方は、織田家家臣の久松俊勝と再婚し、三人の男子をもうけました。定勝はその末弟。 俊勝は桶狭間の戦い後、家康の家臣となり、定勝は家康の死後、秀忠の相談役になりました。
定勝には六人の男子がおり、定勝の遺領、桑名11万石を継いだ次男・定行、 その際に伊勢長島7000石を分与された五男・定房のほか、三男・定綱の家が大名として幕末まで存続しています。

三男・定綱は、はじめ養子に出されていましたが、1599年に家康の命で松平に復し、 兄・定行が松山に移った際に、美濃大垣城から桑名11万石に入りました。 定勝から5代目の松平定重のときに騒動(野村騒動)が起こり、越後高田藩へ左遷され、 その5代後には、陸奥白河藩に移りました。
1774年、後に寛政の改革を行った、田安家の松平定信が養子に入ります。 定信は、11代将軍徳川家斉に定勝以来の旧領、桑名に戻ることを懇願したといわれており、 息子に家督を譲った後の1823年にこれが叶って、桑名で明治維新を迎えました。

御金櫓(再建)と天守

今治城

武具櫓(再建)と東多聞櫓と天守

今治城

正門入り口の枡形

今治城

鉄御門(くろがねごもん)

今治城

二の丸より藤堂高虎像と天守

今治城

二の丸より天守

今治城

天守より鉄御門方面

今治城

2013夏・中国四国2泊3日旅行(3日目:松山城、湯築城、今治城、大山祇神社など)





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