家族旅行で立ち寄りました。
掛川城
文明年間(1469-1487)に駿河守護の今川義忠が、遠江への進出を図り、家臣に命じて築城させたのがはじまり。
今川氏は義忠の子、氏親のとき、斯波氏に代わり遠江守護に任じられ、遠江を平定しました。
氏親の五男・義元のときに、三河や尾張の一部まで所領を拡大しますが、
義元が1560年桶狭間の戦いで討ち死にすると離反が相次ぎ、1568年に武田信玄が駿河に侵攻すると、
義元から家督を継いだ子の氏真(うじざね)は掛川城に逃れました。
掛川城は徳川家康に包囲され、1569年に開城。これをもって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。
掛川城には、家康の従兄弟にあたる石川家成とその子・康通が入城。
以後、対武田氏の防御の拠点となりました。
1590年、家康の関東移封に伴い、豊臣秀吉の直臣、山内一豊が入城。
城の大幅な拡張整備が実施されました。
1600年、関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられ、高知に転封。
以後、城主は安定しませんでしたが、1746年以降、太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、
明治維新まで続きました。
1854年の震災で天守閣、御殿など多くの建築物が損壊しましたが、御殿は時の城主太田資功によって再建され、今も現存。天守閣は平成6年に一豊の移封先の高知城を参考に木造で復元されました。
大手門(復元)
天守閣(復元)
二の丸御殿(現存)と天守閣
四足門(復元)と掛川城