明治維新の主役、薩摩藩島津氏の居城です。
薩摩・島津家の歴史
島津氏の祖、島津忠久は源頼朝の落胤説もあり出自は不明ですが、
摂政近衛家の家臣・惟宗広言の子となり惟宗忠久(これむねのただひさ)と名乗りました。
鎌倉幕府の御家人だった忠久は、源頼朝より1185年、近衛家の荘園で日向国諸県郡を中心に薩摩国・大隅国まで広がる「島津荘」
の下司職に任じられたのをきっかけに南九州と関わりを持つようになります。
その後、薩摩・大隅・日向の三国の守護職に任じられますが、頼朝没後、
1203年に「比企氏の乱」が起こり、縁者であった忠久は守護職を没収されました。
1205年、薩摩守護に復帰します。
当時、当主は鎌倉に住んでいましたが、3代目の久経が元寇の際に下向したのをきっかけに、在地化が進みました。
鎌倉幕府滅亡後、軍功により、5代貞久に大隅・日向の守護職が与えられます。
後に日向国守護は失い、薩摩・大隅二か国の守護となります。
その後は一族の内紛で混乱。15代島津貴久が本家の跡継ぎとして迎えられた後、
1545年に一族・庶家から「三国守護」の承認を得、家督継承をめぐる争いに終止符を打ちます。
1550年、現在の鹿児島市大竜町「大瀧小学校」の場所に内城(うちじょう)を築き、
戦国大名島津氏として一歩を踏み出しました。
反旗を翻す国人を倒し、1577年貴久の嫡男16代島津義久のときに三州統一。
その後、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏を破り、九州のほぼ全域まで支配を拡大しましたが、
1587年、大友宗麟の嘆願を受けて侵攻してきた豊臣秀吉の軍に降伏。
薩摩大隅2国と日向の諸県郡に所領を削減されました。
1600年の関ヶ原の戦いは西軍につき、敗戦。
義久の弟、17代義弘は敵中を突破し、わずか50名ほどで逃げ延びました。
義弘は引退し、その実子で兄・義久の婿養子となっていた島津忠恒(家久)が家督を相続します。
忠恒は、1601年、内城に代わる城として、鹿児島城の築城を開始。
天守などの高層建築や高石垣は築かれず、その理由は江戸幕府への恭順の意味があったといわれます。
立地的にも防御の弱い場所でしたが、
その代わりに領国の各地に山城を築き家臣に守らせる外城制(とじょうせい)が敷かれました。
1602年、徳川家康と講和し、薩摩藩が成立。
1609年には、琉球へ侵攻し、琉球王国を支配下に置きました。
鹿児島城は、廃藩置県まで島津氏の居城になります。
建物は災害により幾度も焼失・倒壊し、その都度建て替えられましたが、
明治6年に焼失後は再建されず、その後は西南の役の舞台にもなったため、建物の遺構はありません。
訪問記
現在、本丸跡には黎明館という立派な県の歴史資料センターがあり、
二の丸跡はその駐車場になっています。
遺構が少ないのは残念ですが、黎明館はとても充実した施設で、
石器時代から戦後に至るまでの鹿児島県の歴史がよくわかりました。
滞在時間は50分(9:10-10:00)でした。
御楼門
本丸の東に位置する正門。石橋は数少ない城の遺構のひとつです。
正面の石垣には西南戦争の時の銃撃による穴が。
堀と石垣
本丸北東部の石垣。鬼門除けで石垣の角を凹ませています。
天璋院篤姫像
本丸にある天璋院篤姫像。篤姫は13代将軍家定の正室。
近くの観光スポットにも立ち寄りました。
西郷隆盛銅像
二の丸のそばに立つ銅像。鹿児島市出身の彫刻家、安藤照によるもの。昭和12年完成。 上野と違って陸軍大将の制服姿です。
照國神社
元治元(1864)年に建立された28代当主、島津斉彬を祀る神社。
斉彬は幕末必ず名前が出てくる人。安政5(1858)年に急死しますが、
後の文久3(1863)年に朝廷より照國大明神の神号が贈られました。
現在の社殿は昭和33年に復興されたもの。当時の社殿は昭和20年に戦災で焼失してしまいました。
境内からは、かつて鹿児島城の詰め城の役割をした城山が見えます。
(7:50-8:10)
城山
鹿児島市中央部の標高108mの山。 鹿児島城の後詰めの城「上之山城」として整備されましたが、1614年以降はその機能を失い、立ち入り禁止区域となりました。 1877年に起こった西南戦争においては最後の激戦地となりました。
西郷隆盛洞窟
城山の中腹に位置する洞窟で西郷軍の本営が一時置かれた場所。
城山展望台
ここは観光バスの団体客が次々に来ていました。ガイドさんが「よーく目を凝らして見て下さい」と言ってました。
(8:30-8:50)