100名城:埼玉県大里郡寄居町の鉢形城に行く

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久しぶりに、家族で軽めのドライブに出かけてきました。100名城は46城目。 外曲輪にある駐車場に車を停めて、鉢形城歴史館でスタンプを押し、歴史を学んでから、城跡をまわりました。 歩いた時間は約60分。とてもきれいに整備されていて、人も多く訪れていました。

鉢形城(はちがたじょう)

荒川とその支流である深沢川に挟まれた断崖の上に築かれた連郭式平山城。天然の要害です。

最初の築城は1476年。山内上杉家の家宰(筆頭重臣)、長尾氏の後継争いで反乱を起こした長尾景春とされています。

その後、武蔵国において後北条氏が、山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方それぞれの家の内紛の隙をつき、 覇権を確立すると、3代氏康の子の北条氏邦が入城し、拡張整備を行いました。

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏は滅亡し、城は廃城になりました。

荒川から城址を望む

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曲輪配置図

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三の曲輪・四脚門[復元]

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三の曲輪上段に復元された石積み土塁と建物、池

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二の曲輪

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ソメイヨシノの片親、エドヒガン

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本曲輪

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本曲輪からの眺望(荒川)

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二の曲輪と外曲輪の間を流れる深沢川

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室町以降の関東の歴史と鉢形城

1336年に成立したといわれる室町幕府は、関東全域を統治するため、1349年に「鎌倉府」という機関を設置し、その長官である「鎌倉公方」とそれを補佐する役の「関東管領」を設けた。鎌倉公方は「足利家(足利尊氏の次男・基氏の子孫)」、関東管領職は「上杉家(足利尊氏の母方の従兄弟・上杉憲顕の子孫)」が世襲した。

その後、「鎌倉公方」は「幕府」と対立し、その調停に努めた「上杉家」とも対立するようになる。

○享徳の乱[1455-1483]

1455年、5代目鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)による関東管領・上杉憲忠(のりただ)の暗殺をきっかけに戦乱に発展。 鎌倉公方・足利成氏は本拠を鎌倉から古河に移し、以後「古河公方(こがくぼう)」とよばれるようになった。 幕府からは「堀越公方(ほりごえくぼう)」とよばれた"正式な公方"が、新たに送り込まれた。 以後、下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした「古河公方・伝統的豪族」と、上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした「幕府・堀越公方・上杉家」とが、関東を東西に二分して戦い続ける。

1476年、上杉家の家宰(筆頭重臣)を代々務めていた長尾家の「長尾景春」が父親の死去後、当主の上杉顕定(あきさだ)により、家宰職に自分ではなく、叔父が指名されたことに反発し、挙兵。

<鉢形城はそのとき、長尾景春によって築城された>

景春の活躍に危機感を抱いた上杉顕定は、足利成氏と和睦。長尾景春の乱は分家である扇谷上杉家(おうぎがやつ)の家宰「大田道灌」の活躍により鎮圧された。幕府と古河公方の間にも和睦が成立し、28年間の戦争は終結。堀越公方の立場は伊豆一国の領主になる。

<鉢形城は上杉顕定の居城となった>

○長享の乱[1487-1505]

1487年、今度は上杉宗家(山内)と分家(扇谷)との間で抗争が勃発。18年に及ぶ戦争は、宗家側の勝利で終結したが、どちらの上杉家も衰退。このとき、堀越公方は駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ滅亡。この戦乱は、今後の後北条氏の関東地方進出を許すきっかけになった。

河越夜戦[1546](かわごえよいくさ)

早雲の孫の北条氏康が「山内上杉家」上杉憲政(のりまさ)・「扇谷上杉家」上杉朝定(ともさだ)・「古河公方」足利晴氏(はるうじ)の3者連合軍を破った戦い。これにより、後北条氏による武蔵国の覇権が確立した。

扇谷上杉家→朝定は討死し、扇谷上杉家は滅亡。 山内上杉家→憲政は居城の平井城(群馬県藤岡市)に逃れるものちに落城。越後で長尾景虎を頼る。景虎に山内上杉家の家督を譲り、関東管領職も譲渡。 古河公方→晴氏の次期古河公方に北条氏康の甥でもある義氏が就く。

<1560年頃、鉢形城に氏康の四男、氏邦が入城。大改修を加える。以後、後北条氏の北関東支配の拠点となる>

○越相同盟[1569-1571]

甲斐の武田信玄に対抗するため、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ同盟。ここで、「古河公方」が北条が傀儡する足利義氏であること、「関東管領」が上杉謙信であることを互いに承認した。後北条氏の関東支配が確定的となり、既に名目だけになっていた「古河公方」「関東管領」職は、必要性が低下。両職ともこの後、自然消滅。

○小田原征伐[1590]

関東制圧を目前にしていた後北条氏だが、惣無事令(豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)違反を名目に秀吉の攻撃を受ける。

<鉢形城攻撃>

氏邦は、3,500の兵で篭城するも、豊臣方の前田利家や上杉景勝(謙信の養子)、真田昌幸らの連合軍に攻められ、1ヵ月後に城兵の助命を条件に開城。廃城された。

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