犬山城から岐阜城に向かう途中で雪が降りはじめ、城に向かうにつれて激しくなりました。
ノーマルタイヤなので少し心配しましたが、積もることはなく、着いたときにちょうど止んでくれました。
かつて稲葉山城と称したこの城は、斎藤道三、織田信長の居城として有名です。
信長が安土城に移ってからも、関ヶ原後に廃城になるまでビックネームが城主を務めました。
金華山の麓からロープウェイで山頂へ。山頂には、昭和31年に建てられた鉄筋コンクリート造りの復興天守があります。
麓には居館跡があり、現在も発掘調査が続いています。
犬山城と同様に、こちらも天守からの景色はとてもよいものでした。
夏から秋にかけての期間はロープウェイが夜間営業しており、夜景も楽しめるとのこと。きれいなことは想像に難くありません。
岐阜城
建仁年間(1201-1204)に、鎌倉幕府の執事・二階堂行政が砦を築いたのがはじまり。
室町時代より、美濃は土岐氏が守護、斎藤氏が守護代を務めました。
斎藤道三は、斎藤氏庶流の長井氏の家臣(それ以前は油売りだった)から下克上して、稲葉山城に居城。
1541年、土岐氏を追放し、美濃の事実上の国主となりました。
1548年頃より織田氏とは和睦が成立していましたが、
1556年、「長良川の戦い」で道三が息子・斎藤義龍に討ち取られると険悪になり、
1567年、「稲葉山城の戦い」で戦国大名としての斎藤氏は滅亡。
織田信長は本拠を小牧山城から移し、名を岐阜城とあらためました。
1576年、安土城築城を機に、信長の嫡子「織田信忠」が城主となります。
1582年、本能寺の変で信忠は死去し、清洲会議の後、三男「織田信孝」が城主となりました。
秀吉と対立した信孝は、秀吉方についた次男信雄に攻められ、のちに切腹。
1583年、池田恒興が美濃大垣城主となり、長男元助が岐阜城主となります。
1584年、恒興、元助父子が「小牧長久手の戦い」で討ち死にすると、
次男「池田輝政」が大垣城主を経て、1585年に岐阜城主となりました。
1591年、輝政が三河吉田城に転封となり、秀吉の姉の子、豊臣秀勝が城主となります。
1592年、秀勝が文禄の役で出陣中に死去すると、信忠の嫡男「織田秀信」が城主となります。
1600年、西軍についた秀信は、関ヶ原の戦いの前哨戦「岐阜城の戦い」で敗れ降伏。
1601年、徳川家康、長女・亀姫を正室とする奥平信昌に加納城を築城させ、岐阜城は廃城となりました。
天守より長良川方向
中央右側に見える小山は、斎藤道三の隠居城、鷺山城だそうです。
天守より名古屋方向
麓から天守
朝、8:30頃出発して、犬山城と岐阜城をまわって、帰宅は0:00頃。走行距離は802キロでした。