妻子とともに3人で登城。前日の夜20時前に、東京江東区の自宅を出て、名神高速・養老SAで車中泊しました。 暑くてあまり眠ませんでした・・。朝起きて自宅から用意してきたパンを食べて出発。小谷城に向かいました。
小谷城【近江国浅井郡】の歴史
小谷城は、標高495mの小谷山から南の尾根筋に築かれた山城で、近江国の戦国大名「浅井氏」の居城です。
1523-1524年頃に、浅井亮政(すけまさ)によって築かれた説が有力。
亮政は、北近江半国の守護・京極氏に仕えていましたが、京極氏の御家騒動をきっかけに下克上し実権を掌握。
その後、京極氏の本家筋に当たる南近江の六角氏と対立するようになりました。
1542年に亮政が死去し、跡を継いだ子・久政の時代になると、六角氏におされてその配下になりますが、
1560年、その子、長政が「野良田の戦い」で六角氏に大勝して以降、両者の争いは浅井氏優勢となりました。
同じ頃、長政に対し、尾張の織田信長が、美濃攻めを優位にすすめるため、同盟を申し込んできました。
織田氏は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏とは足利三管領「斯波氏」の家臣同士で、古くから敵対関係にありました。
長政は、信長に「朝倉への不戦の誓い」をさせたうえで同盟を受け入れ、信長の妹のお市の方を妻に迎えました。
1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、義昭の命令として朝倉氏に上洛を要請しますが、
これを朝倉氏が拒否したため、越前国に進軍を開始します(1570年)。
長政はこれに怒り、信長との同盟を破棄して、朝倉氏を支援。信長は一時撤退を余儀なくされ、
以後、両者は対立することになりました。
長政は、1570年の「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍に敗れますが、
続く「志賀の陣」では反信長包囲網が形成されて、織田軍を苦しめました。
しかし、次第に織田優位の状況となります。
小谷城の戦い
1573年、浅井重臣の織田方への寝返りを契機に、信長が北近江に侵攻。
長政は、朝倉氏に応援を要請し、朝倉氏はこれに応じて兵を出しますが、
朝倉軍はこのとき壊滅的な敗北を喫し、そのまま居城の一乗谷城まで攻め込まれて滅亡してしまいました。
織田軍は小谷城に引き返し、浅井氏に対して総攻撃を開始します。
長政は、お市の方と3人の娘(茶々、初、江)を織田軍に引き渡し、自刃。小谷城は落城しました。
小谷城は廃城にしたうえで戦功のあった秀吉に与えられ、その後、秀吉は長浜城を築城しました。
小谷城訪問記(2015/8/12)
7:30に「番所跡」前に到着。車でここまで来られることは事前に調べていました。 小谷城は湖北では、最大規模の城。 麓に広い駐車場がありますが、そこから登ってくるとかなり大変らしいです。
番所からの眺望
一番手前右の大きな山は、小谷城の「山崎丸」。左は、織田軍が陣を張った「虎御前山」。 右奥の小さな島が琵琶湖に浮かぶ「竹生島」です。
小谷城跡絵図
番所跡から本丸跡までは、浅井長政自刃の地である赤尾屋敷跡に寄りながら、約30分で着きました。 登り坂はそれほどきつくなかったのですが、途中にちょうど顔の高さに蜘蛛の巣が掛かっている場所がいくつかあり、 それを避けていくのが大変でした。
御茶屋
御馬屋
馬洗池
首据石
六角氏と内通した家臣を誅殺した後、見せしめのため、その首をこの石の上に置いたエピソードがあるそうです。
赤尾屋敷跡
浅井氏重臣、赤尾清綱の屋敷があった曲輪。
浅井長政公自刃の地
本丸にいた長政は、最後の攻撃で黒金門から討って出ますが、信長軍に攻められ本丸に戻れなくなり、 やむなく赤尾氏の屋敷で自刃したそうです。なんとなく無念さが伝わってきました。
桜馬場
黒金門跡
大広間
本丸の石垣
本丸
妻子からこれ以上は付き合えないと言われ、2人はここで折り返し、 私だけもう少し先の山王丸まで行きました。
天守台北の大堀切
中丸
刀洗池
京極丸
守護の京極氏の屋敷跡。浅井氏とは同じ城に住んでいたのですね。 小谷城の戦いのときは、秀吉がここを攻め落とし、長政の居る本丸と長政の父・久政の小丸を分断しました。
小丸
久政が隠居後に居住した場所。小谷城の戦いのときはここで自刃したそうです。
山王丸
山王権現を祀る神社があったそうです。
山王丸斜面の大石垣
登城後は、麓の駐車場の休憩所で100名城スタンプの設置場所である「小谷城戦国歴史資料館」の開館時間(9:30)まで一休み。
山中では、見た目から城マニアで間違いなさそうなおじさんに一人に会っただけでしたが、
麓の駐車場には家族連れがたくさん来ていました。このあたり、城のほかに何か遊べる施設があるのかしら。。
戦国歴史資料館のなかは見学せずに入口でスタンプを押すだけで、
次の目的地である観音寺城に移動しました。
(7:30-9:30)
2015夏・滋賀県100名城を巡る2泊3日家族旅行(1日目:小谷城・観音寺城・安土城)