昨日小谷城、観音寺城、安土城の3城をまわったので、今日は彦根城をゆっくり見学しました。
彦根城の歴史
幕末期の大老、井伊直弼が有名な井伊家の居城です。井伊家は、もともと遠江国井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市)の豪族でしたが、戦国時代は今川氏の支配下に置かれ衰退していきます。
大きく発展させたのは、1575年、15歳のときから徳川家康に仕えた井伊直政。
その武勇と政治的手腕は高く評価され、1590年、家康が秀吉によって関東250万石に移封されると、上野国箕輪城に徳川家臣団では最高の12万石で配されます。
1600年の関ヶ原の戦い後は、それまで石田三成の城だった近江国佐和山城に18万石で移りました。
1602年、直政が関ヶ原の戦いの際に負った傷の影響で42歳で死去した後は、長男の直継が跡を継ぎますが、
家臣をまとめられず、1615年に家康の裁定で、直継の弟、直孝が当主になりました。
(直継は分家して上野安中藩主となり、子孫は越後与板藩主として幕末まで存続。)
直孝は、父同様に将軍家からの信頼が厚く、後見役として3代家光、4代家綱を補佐しました。
その結果、井伊家は譜代大名の中でも最高となる30万石(35万石格)の大大名となりました。
彦根城の建設は1603年から。幕府が他の藩の大名にも手伝いを命じる天下普請で行われました。
大坂の豊臣氏に対する備えだったと言われています。現存する天守は国宝。
堀田家、酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、
筆頭家臣の井伊家は彦根城を離れることなく明治維新を迎えました。
ただ、大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後は、幕政の混乱の責任をとらされ、20万石に減封されました。
そのこともあってか大政奉還後は新政府を支持し、戊辰戦争では政府軍に加わり、各地を転戦しました。
訪問記
表門橋
ここから入城しました。
ひこにゃん
2代藩主、井伊直孝に縁がある世田谷区豪徳寺の白猫がモデルだそうです。
廊下橋
天秤櫓(重文)
天秤櫓からの眺望
正面に見える山が佐和山城。
廊下橋と正面の郭は鐘の丸。
太鼓櫓(重文)
佐和山城?の門を移築したものらしい。
本丸と天守
天守(国宝)
大津城の4層の天守を3層に縮小し、移築したと伝えられる。
天守からの眺望
琵琶湖が近いです。
西の丸三重櫓(重文)
小谷城の天守を移築したと伝えられるが、定かではない。
黒門
北側の内堀
二の丸佐和口多聞櫓(重文)
左上に少し見えているのは天秤櫓です。
彦根城模型(開国記念館)
模型で位置を確認。手前の橋(入口)が表門。左の橋が大手門。右の橋が裏門。右奥の橋が黒門。 石垣の郭は、左の手前から、鐘の丸、太鼓丸、本丸、西の丸。内堀の外側が二の丸で、 写真の下端に見える櫓が、佐和口多聞櫓になります。
玄宮園からの天守
江戸初期に整備されたといわれる大名庭園。天守を借景としている。
埋木舎(うもれぎのや)
井伊直弼が不遇の時期に過ごした屋敷。
座禅の間
感想
丸一日かけて一つの城の見学することはあまりないのですが、振り返って見ると、その割に見逃したところが多くあった気がします。 家族旅行で来たというのもあるし、自分自身も、ひこにゃんに気をとられ過ぎました。 続100名城で近くに行くときには再訪したいお城です。