100名城:岡山県高梁市の備中松山城に行く

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標高430mの臥牛山小松山山頂にあり、備中の要衝として機能した山城です。現存する天守があります。 まずは城から少し離れた場所にある「雲海に浮かぶ備中松山城」を撮影できる展望台に向かいます。

前日の20:00に東京の自宅を出て、23:00浜松SAで約30分休憩、26:30淡河PAで仮眠。5:00に出発。 その後、ところどころのPAで、たびたび襲われる眠気を覚まし、 出かける前の満タン給油では足りないので、吉備SAでは給油もしながら、 7:45、ようやく展望台にたどり着きました。

備中松山城展望台

雲海が見える条件は、9月下旬から4月上旬の明け方から午前8時頃までの間で、 天気が良く明け方と日中の気温の差が大きいときだそう。

今朝は、見られることを確信していましたが、その通り、わずかな時間でしたが、しっかりみることができました。 周りにいた人が「少し前に来た人が見られずあきらめて帰った」と話していたので、ラッキーだったかもしれません。 睡魔と闘いながら頑張って運転し、来た甲斐がありました。

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展望台

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展望台入口

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備中松山城【備中国】の歴史

1240年、地頭の秋葉三郎重信がここに砦を築いたのがはじまり。

備中国は守護・細川氏の威光が早くから衰え、国人が台頭していました。 そのなかで、もともと常陸国筑波郡出身で、鎌倉後期に備中に移住した「三村氏」が、 ここを居城に、16世紀前半から勢力を伸ばします。

三村氏は、毛利氏の後ろ盾により、16世紀中頃には備中をほぼ統一し、 備前・美作の宇喜多氏と争うようになりました。

しかし、1574年、毛利氏が宇喜多氏と結んだことから、 当時の城主「三村元親」は毛利氏から離反し、織田方に寝返ります。 結果、毛利方の小早川隆景に攻められることになり、1575年に落城。 城は、毛利氏の領有となりました。

1600年の関ヶ原の戦い後、毛利氏が長門・周防2か国に転封になると、徳川氏により城番が置かれました。 1617年、鳥取藩より、池田輝政の弟・長吉から家督を継いだ「池田長幸」が入封し、備中松山藩を立藩します。

1641年、池田家が2代目で無嗣断絶すると、備後福山藩の水野勝成により城番が置かれたのち、 1642年、備中成羽藩より「水谷(みずのや)勝俊」が入封。 現在残されている城の姿は、2代目の勝宗のときの修築によるものと伝えられています。

1693年、水谷氏が3代で無嫡改易となった後は、 一時、赤穂藩家老の大石良雄が城代として在番しました。

1695年以降は、譜代大名の「安藤氏」2代、「石川氏」1代と続き、 1744年に「板倉氏」が入城すると、8代続いて明治維新を迎えました。

幕末期は、板倉家7代藩主、板倉勝静(かつきよ)が有名です。 かつての白河藩主・松平定信の孫で、板倉家の婿養子に入った勝静は、 老中首座として徳川慶喜を支え、戊辰戦争も戦いました。

訪問記

「城見公園駐車場」に車を停め、そこからシャトルバスに乗って「ふいご峠」に行きます。 シャトルバスは片道5分程度、15分間隔で出ています。往復300円。天守入場開始時間の9:00にあわせて出る始発のバスに乗ることができました。

そこから徒歩で700m、約20分程度の山登り。 観光客は年配の人が多め。山登りは、みんなフーフーいっていましたが、自分は最近行った小谷城や岩村城などに比べると、 まだマシでした。

登城口

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中太鼓丸櫓跡

はじめに見える石垣。

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石垣の上からの眺望。瓦が散乱しているのがリアルでした。

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大手門手前

城主が迎えてくれました。

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大手門跡

すごいスケールです。

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大手櫓跡

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土塀(一部現存)

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三の丸

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二の丸より天守を望む

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天守(現存)

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天守内部(現存)

天守一階

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天守二階

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二重櫓(現存)

天守奥に建つ。岩盤の上に石垣を築き建てられているのがわかります。

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2015秋・中国1泊4日ドライブ旅行(1日目:備中松山城・鬼ノ城・赤穂城)





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