赤穂城 <播磨国> の歴史
1600年、池田輝政に播磨一国が与えられると、弟の長政が赤穂領主となり、
赤穂城の前身となる「大鷹城」を築城しました。
1613年、輝政の死後、赤穂領は姫路藩から岡山藩主の輝政次男・忠継の所領に変更され、
1615年、忠継が死去すると、輝政五男池田政綱は、忠継を継いだ輝政三男・忠雄から35000石を分知され、赤穂藩を立藩しました。
(このとき四男・輝澄は播磨山崎藩を38000石で立藩しました)
しかし、その後を継いだ、輝政六男「池田輝興」が1645年に発狂(正室と侍女数名を斬り殺す)し、改易。
その後、常陸笠間藩より浅野長直が53000石で入城しました。
長直は、豊臣政権五奉行筆頭、浅野長政の三男で、浅野家初代広島藩主、浅野長晟の弟。
現在ある赤穂城は、長直によって1648年から13年かけて旧城の南に築かれたものです。
この城は、5万石の藩にはそぐわない広壮なもので、この築城がその後の藩の財政を圧迫しつづけたと言われています。
1701年、3代浅野長矩(ながのり)が江戸城中の「松の廊下」で、
高家旗本吉良上野介に対する刃傷事件を起こして改易されると、
その後、徳川譜代の永井氏が32000石で入城しました。
1706年、永井氏が信濃飯山藩に転封になると、森長直が2万石で入城し、以後、12代続いて明治維新を迎えました。
森家
森長直は、津山藩186000石、初代森忠政の跡を継いだ養子、長継の八男。
津山藩は、長継隠居後、1697年に5代目を継いだ長継の十二男、衆利(あつとし)が発狂し、改易になります。
発狂の真相は「犬小屋の管理不行き届きで切腹になった家臣がおり、生類憐みの令に対する幕政批判したこと」だったそうです。
森家は、織田信長の家臣で、尾張統一にも尽力した森可成(よしなり)の家系。
これまでの功績から特別に家名存続を認められ、長継が播磨国西江原藩を2万石で立藩し、
1698年に89歳で死去すると、長直がその跡を継いでいました。
永井家
永井氏は徳川譜代の家臣で、その先祖には小牧長久手の戦いで池田輝政の父、池田恒興を討ち取った「永井直勝」がいます。 大坂の陣以降、大名となりますが転封を繰り返し、最後は美濃加納藩主として、明治維新を迎えました。
訪問記
山城が続いた後で平城はほっとします。復元整備が進み、城はとてもきれいでした。
(14:30-15:45)
本丸門(復元)
本丸櫓門(復元)
天守台
江戸当時から天守台のみで、天守の建設は一度もされませんでした。
天守台から本丸庭園
天守台から本丸門方向
厩口門(復元)
二の丸(外側)より。
二の丸の石垣と堀
大石邸長屋門
三の丸
近藤源八宅跡長屋門
三の丸
案内図
三の丸隅櫓(復興)
大石神社
三の丸
2015秋・中国1泊4日ドライブ旅行(1日目:備中松山城・鬼ノ城・赤穂城)