日本100名城:兵庫県姫路市の姫路城へ行く - takerokero blog

日本100名城:兵庫県姫路市の姫路城へ行く

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7:30に宿泊した「ホテル姫路ヒルズ」を出発。城前の駐車場に車を停め、8時少し前には姫路城の入り口に着きました。

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天守までの道のり

姫路城大天守登閣整理券をもらう

既に、有料区域の切符売場には、1000人以上の行列ができていました。 さらに大天守に入るためには、この行列の間に配られる整理券をもらわなければなりません。 この整理券の配布数は、一日15000枚程度と決まっています。

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並んでいる間に、入城開始時間が30分早められ、8:30になりました。自分が入れたのは、8:50頃。

菱の門

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三国堀から天守

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はの門

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にの門

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ほの門

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水一門

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水二門

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水三門

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水四門

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水五門

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水六門

西小天守の地階に設けられた門。

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天守内部

天守内部も行列は続き、ここまで来てあきらめて帰る人もいました。 自分が天守を出たのは、入口で並び始めてから約2時間後の、10:10頃でした。

西の丸方向の眺望

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天守一階

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東方向の眺望

との一門は工事中。

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武具掛け

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東大柱

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西大柱

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南方向の眺望

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本丸(備前丸)

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備前門

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太鼓櫓に向かって歩く

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扇の勾配

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西の丸

ここは姫路城主本多忠政が、大坂夏の陣のあと将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻(ただとき)のために御殿を建てた場所。 千姫は、7歳で豊臣秀頼と結婚。大坂夏の陣の際、大坂城から救出されました。1618年に忠刻との間に勝姫を出産。 1619年に長男・幸千代を出産しますが、幸千代は1621年に死去。忠刻も1626年に亡くなり、江戸に戻りました。
勝姫は1628年、池田輝政の嫡孫で当時鳥取藩主だった光政の正室となりました。

化粧櫓

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千姫の祖母は織田信長の妹、お市。祖母の美貌を受け継いだ美しい姫君だったそうです。

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西の丸から天守

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帯郭櫓と天守

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大手橋から天守

時刻は12時20分。見学時間は4時間20分でした。 今日の予想最高気温は30度。天気が良く、いい写真が撮れましたが、暑かったです。

やはり姫路城は、いままで見てきた城とは別格でした。まったくスケールが違います。 天守も立派ですが、それだけでなく周りの建物までちゃんと残されているのがすごいです。 じっくり見たつもりですが、振り返ってみるとまだ城巡りに慣れていない頃で、 見逃したところ、写真に上手く収められなかったところ等あり、再訪したい城です。

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姫路城の歴史

1333年、後醍醐天皇の皇子、護良親王の命で播磨守護の赤松則村が鎌倉幕府を討つため挙兵した際、 姫山に砦を築いたのがはじまり。建武の新政がスタートすると、則村は足利尊氏に呼応し、室町幕府創設の功臣となりました。 1346年、則村の次男、貞範は姫山に本格的な城を築きました。

1441年、赤松満祐(みつすけ)・教康(のりやす)父子が、6代将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱を起こします。 父子は幕府追討軍に敗れ、赤松氏は没落。姫路には因幡の山名持豊が入りました。

1457年、赤松政則が赤松家を再興。1467年、応仁の乱で播磨国を回復します。 しかし、赤松氏は一族間で対立し、一族や家臣らの勢力が播磨国の数郡ごとを領して、半独立状態となりました。

姫路城は、赤松氏一族の小寺氏に仕えた黒田氏が城代を務めていました。 1568年に、織田信長が足利義昭を奉じて上洛します。 周辺国では西から毛利氏、東から織田氏が勢力を広げていきますが、 毛利氏と織田氏は播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていました。

1576年、毛利輝元は、1570年から信長と交戦状態にあった石山本願寺の支援を行い、織田信長と対立。

姫路城の黒田孝高は早くから信長を支持し、1577年、信長の命を受け、 豊臣秀吉が播磨に進出すると、秀吉に姫路城を提供し、自らは二の丸に移り、その参謀となりました。

1578年、赤松氏一族で三木城主の別所長治、御着城主の小寺政職は信長に反旗を翻しますが、 1580年にはいずれも落城し、信長によって播磨は平定されました。 黒田孝高は、信長から播磨山崎に1万石を与えられ、秀吉の与力となりました。

1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れたことをきっかけに、輝元は秀吉に臣従。 秀吉は大坂城の築城を開始し、姫路城には弟の羽柴秀長が入城しました。

1585年、秀長が四国平定の功で大和郡山城に移ると、木下家定(北政所の兄)が城代として入り、 1600年、関ヶ原の戦い後は、池田輝政が三河吉田城から52万石で入城。初代姫路藩主となりました。

輝政は、姫路城の大改築を開始、1609年に5重7階の連立式天守が完成します。 これが現在の姫路城で、現存建築物の内、大天守・小天守(東小天守・西小天守・乾小天守)・渡櫓等8棟が国宝に、 74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されています。

1617年、輝政の孫の光政が家督を継ぎますが、幼少を理由に鳥取に転封。 代わって徳川四天王の一人、本多忠勝の長男・本多忠政が15万石で伊勢桑名より入封しました。

本多家は、1631年に忠政が死去すると、長男・忠刻が既に死去していたため、次男・政朝が継ぎますが、これも1638年に死去。 政朝の長男・政長が6歳と幼少だったため、忠勝次男・忠朝の子・政勝が、後年政長に譲る約束で家督を相続しました。 1639年に、政勝は大和郡山藩に移封。その後、政勝は次第に実子の政利に跡を継がせたくなり、1671年、政勝死去後、御家騒動に発展。 郡山15万石は、政長9万石、政利6万石に分割されることになりました。

姫路藩は、1639年、大和郡山藩より家康の長女・亀姫を正室に迎えた奥平信昌の子・松平忠明(奥平松平家)が、18万石で加増移封。忠明没後、跡を継いだ子の忠弘は幼少のため、1648年に山形転封。 山形藩より入れ替わりで、結城秀康五男・松平直基(なおもと)(越前松平家)が15万石で移封を命じられるも、封地に赴く途上、45歳で死去。跡継ぎの直矩(なおのり)は幼少のため、越後村上に転封。

1649年、白河藩より徳川四天王の一人、榊原康政の孫の榊原忠次が入封し、3代後、1667年に越後村上藩へ。村上藩より入れ替わりで成人した松平直矩(越前松平家)が入封し、1代で豊後日田藩へ。
1682年、陸奥福島藩より初代水戸藩主徳川頼房の孫で、本多政長の養子となり本多家を継いでいた本多忠国が入封し、2代後、1704年に越後村上藩へ。村上藩より入れ替わりで本家榊原氏を相続した榊原正邦が入封し、4代後、越後高田藩へ。
1741年、白河藩より直基から4代目になる松平明矩(越前松平家)が入封し、2代後、1749年に上野前橋藩へ。前橋藩より入れ替わりで徳川家譜代筆頭酒井家の酒井忠恭(雅楽頭酒井家)が入封してから、ようやく藩主が安定し、10代続いて明治維新を迎えました。

酒井家8代藩主の酒井忠績(ただしげ)は江戸幕府最後の大老。第二次長州征伐の事後処理などを行いました。9代藩主酒井忠惇(ただとう)は、鳥羽伏見の戦いで幕府方につき、徳川慶喜の江戸退却に随行。姫路藩は、新政府軍から追討の対象とされますが、降伏し、姫路城を無血開城。城は備前岡山藩預かりとなりました。





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