暦のはなし

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100名城をまわっていると、歴史の年表をよく目にするが、日本では明治5(1872)年まで旧暦が使用されていて、同じ出来事でも和暦と西暦で日付の表記が違う。
たとえば、兵庫港の開港日は、和暦では慶応3年12月7日。なんの変哲もない日だが、西暦にすると1868年1月1日。この日は、西暦を基準に決められたことがわかる。

そもそも旧暦とは何なのか。ちょっと興味が沸いたので調べてみた。

●自然暦から太陰暦

元来人々は、太陽の運行の影響下にある自然の移り変わりに従って生活しており、あの山の雪が解けたら、あの木に花が咲いたら、
といったことを農耕の目安とし、その一巡りを一年とした。

しかし、その基準は、あくまで地域限定のもので、一巡りの日数も長すぎて把握が難しい。
広範囲で共同して利用できる暦が必要になったとき、人は月に注目した。

太陰暦は、新月の日から次の新月までを一月(29.5日)、29日の月と30日の月を交互に繰り返し、季節がほぼ一巡するのと等しい12ヶ月を一年とした。
一年は354日の計算で、地球の公転周期と比べると年間約11日短い。3年で約1ヶ月分、季節のズレが生じる。


●太陰太陽暦

この季節のズレを補正するため考案されたのが太陰太陽暦。
当初は、19年間に7回閏月を置いて調整をした。以下の計算から、これによりほぼ等しくなることがわかる。

19太陽年=365.2422日*19=6939.6018日
12ヶ月*19+7閏月=235月*29.530589日=6939.6884日

○閏月の置き方

冬至を基点に、1太陽年を24に分割し、二十四節気を設定。
そのうち、12の節気(中気)に月を割り当て、ここに月の周期を重ねる。

大雪・冬至→11月。小寒・大寒→12月。立春・雨水→正月。啓蟄・春分→2月。清明・穀雨→3月。立夏・小満→4月。
芒種・夏至→5月。小暑・大暑→6月。立秋・処暑→7月。白露・秋分→8月。寒露・霜降→9月。立冬・小雪→10月。

中気から中気までの長さを均等にすると30.4368日(平気法)。一朔望月は29.530589日(平朔法)であることから、まれに中気を含まない月の周期が発生する。
これを閏月とし、前の月の名前に閏をつけて呼んだ。

○月の朔望

一朔望月のスタートを指す新月は、太陰暦では、はじめて月が見えるようになったもの(三日月ごろ)を指したが、
これを「朔」とし、ついたちとした。

また、一朔望月は、平均29.530589日であるが、厳密には季節によって差があるため、619年の戊寅暦以降、実測に基づいたものに変更した。
この結果、大の月、小の月の配置が毎年変わることになった。(定朔法)

暦の計算を複雑化させた背景には、古来中国では、皇帝は国土や人民だけでなく時間をも支配するという思想があり、
皇帝は天体を観測し、人民に正しい季節を知らせる特権と責務を負っていたことが挙げられる。

一太陽年、一朔望月を何日として計算するか(定数)の変更、朔の決め方(平朔・定朔)、二十四節気の配置法(平気・定気)の改良や
王朝の交代などの理由から、しばしば改暦が行われた。

複雑な計算と、年により年間の日数の大きく変動してしまうのが欠点。


○日本への伝来

日本で、太陰太陽暦が使用されるようになったのは、6世紀半ばから。
朝鮮の百済から伝えられた中国の暦法(元嘉暦:げんかれき)がそのまま使われた。
二十四節気が日本の季節に合わないのはそのため。

陰陽寮という役所で暦博士によって編纂され、毎年11月1日に来年の暦が頒布された。

○宣明暦(せんみょうれき)

元嘉暦以降、3回の改暦をはさみ、862年に宣明暦に改暦された。
中国がたびたび改暦しているのとは対照的に、日本では、江戸時代の初めまで、823年間、この暦法が使われ続けた。
暦に対する関心が低かったよう。

平安末期になると、朝廷の力が衰え、地方まで暦が伝えられなくなり、各地方では宣明暦のテキストを用いて、独自の暦が作成された。その結果、地域によって月の大小が違うこともあった。

○貞享暦(じょうきょうれき)

江戸時代になり、宣明暦は、時間の経過とともに天体の運行との誤差も大きくなった。
日食、月食の予報がしばしば外れるようになったことで、暦法への関心が高まった。

将軍綱吉の頃、天文暦学者の渋川春海が、中国で元の時代から明の末期まで使用されていた授時暦を基に、基準点を日本の京都に移し、暦註に雑節を加えた貞享暦を作成。
これに改暦した。日本初の独自の暦法であり、以後、幕府の統制により、全国の暦の内容の統一が計られた。

貞享暦は70年間使用され、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦し、最後の天保暦に至る。

○天保暦

天保暦は、天保15年1月1日(1844/2/18)から、明治5年12月2日(1872/12/31)まで約29年間使用された太陰太陽暦。
翌日からは、グレゴリオ暦が採用され、明治6年1月1日(1873/1/1)となった。
天保暦が従来の暦法と異なるのは、二十四節気の配置法。これまでの時間均等割(15.218日)から、
春分を0度とし15度ずつ24等分し、そこを太陽が通過する日を割り当てるよう変更した(定気法)。
節気の間隔は、1月2日頃最短の14.72日、7月6日頃最長の15.73日となり、ひと月のなかに、2つの中気が存在する場合がでてきたので、以下の注釈が加えられた。

1. 冬至を含む暦月を11月、春分を含む暦月を2月、夏至を含む暦月を5月、秋分を含む暦月を8月とし、その他の月名を調整する。
2. 閏月は中気を含まない暦月に置くが、中気を含まない暦月がすべて閏月とはならない。

○現在の旧暦と2033年問題

現在、カレンダーに記載されている旧暦は、国立天文台が毎年2月はじめに発表する「暦要項」の翌年分の朔弦望、二十四節気の情報と、
天保暦の閏月設定のルールに従って、各出版社が独自に計算したもの。各出版元で相違することはないが、公的に発表されているものではない。

しかし、2033年秋から2034年春にかけての暦は、8月と11月の間に1ヶ月しか間隔なかったり、12月とも1月ともとれる月が現れ、
天保暦のルールだけでは、月名が決定できなくなることがわかっていて、旧暦を継続する場合は、新たなルールの策定が必要になっている。

ちなみに、中国では、1644年に明から清に王朝が変わり、従来の授時暦から時憲暦に改暦された。
1912年に中華民国の建国に伴い、グレゴリオ暦が採用されることとなったが、現在も「春節」の日取りの決定のため、公的にも一部残存している。
二十四節気の配置法は、天保暦と同様に定気法だが、閏月設定のルールが異なり、2033年問題は起こらない。


○干支と暦註

十干、十二支は、古代中国の頃より、暦日を表す文字として使われていたが、その後、陰陽五行とも結び付けられるようになった。
暦註に記載されている多くの吉凶判断は、この組み合わせを根拠にしている。
今となっては迷信的なものだが、これらも暦の一部として日本に伝えられ、受容された。

十二直・選日・二十八宿・九星・暦注下段・六曜


○七十二候と雑節

七十二候(しちじゅうにこう)は、二十四節気を3分割し、約5日ごとの気象の動きや動植物の変化を知らせるもの。
二十四節気が古代のものがそのまま使われているのに対し、七十二候は何度も変更され、
日本でも貞享暦への改暦にあわせて、日本の気候風土に合うように改定された。現在、主に使われているのは、明治時代に改訂された「略本暦」のもの。
桃始笑(ももはじめてさく)、蛙始鳴(かわずはじめてなく)、玄鳥去(つばめさる)、地始凍(ちはじめてこおる)など。

雑節は日本独自につくられた季節指標。節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日。


●太陽暦の歴史

太陽暦は、紀元前2900年頃、古代エジプトで生まれ、当初は、1年を365日とし、30日を1ヶ月とし12ヶ月、余った5日を13月としていた。
早くから地球の公転周期は365.2422日であることはわかっており、4年に一度、閏日を置き、13月を6日とした。
太陽暦には、元々1ヶ月という概念はなく、30日を1ヶ月としたのは、太陰暦の概念がそのまま持ち込まれたといわれる。

その後、紀元前45年頃、古代ローマのユリウス・カエサルが、13月の5日を他の月に振り分け、1年を12ヶ月としたユリウス暦を制定。
以後、このユリウス暦が、欧米を中心に広く用いられた。

しかし、16世紀になると、4年に一度の閏日の設定では、季節に対して10日ほどのズレが生じていた。
1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良し、「4年に一度の閏年を、西暦の年数が100で割り切れかつ400で割り切れない年は閏年としない」
とするグレゴリウス暦が制定され、現在は、こちらが世界各国で用いられている。

優れた暦法であるが、欠点を挙げるとすれば、2月の日数が少なく、四半期でみたときに日数の不均等が生じるところ。

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