奈良・大阪の山城2城を登城する日帰りドライブ。最初に向かったのは奈良県の高取城です。
ここは昨年訪問した岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城と並び日本三大山城のひとつとされるお城です。
東京の自宅を午前3:40に出発し、途中、今年の2月にできたばかりの新東名を通りました。
新しくできた岡崎SAで休憩を入れ、6時間半かけて、現地に10時過ぎに着きました。
高取城【大和国】の歴史
1332年、大和国の豪族越智氏によって築城されたのがはじまりと伝えられています。
大和国の守護は、鎌倉時代より興福寺というお寺が務めていましたが、
次第に勢力が衰え、越智氏、筒井氏らが台頭しました。
越智氏は、1467年の応仁の乱の際に畠山義就派につき、畠山政長派の筒井氏を抑えて最盛期を迎えますが、
その後、筒井氏が盛り返し、筒井順昭(じゅんしょう)のとき、筒井氏が大和国をほぼ手中に収めます。
越智氏はその配下に組み込まれたのちに滅亡しました。
1550年、順昭の死去に伴い、筒井順慶が2歳で家督を継ぐと、
三好長慶の家臣だった松永久秀が大和に侵攻を開始します。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀はいち早く信長に取り入り、
幕府より大和一国の平定を許されますが、義昭と信長が対立すると信長と敵対。
しかし、織田軍に敗れ、信長に服属します。
同じころ、久秀と対立を続けていた筒井順慶も、明智光秀の仲介によって信長に臣従しました。
順慶は信長方として長篠の戦いなどに参戦し、1576年に信長から大和国の支配を任されます。
筒井順慶は、1577年に松永久秀が再び信長に謀反を起こすとこれを滅ぼし、
1578年、大和国を平定しました。
本能寺の変後、筒井順慶は秀吉の家臣となり所領を安堵されましたが、
1584年、36歳で死去。家督を継いだ養子・筒井定次は、翌年伊賀上野に転封となりました。
大和国には、代わって秀吉の異父弟、豊臣秀長が入り、高取城には重臣の脇阪安治が入城しました。
脇坂が2か月で洲本に移ると、同じく秀長重臣の本多利久が入城し、
本格的な山城を築きます。
1591年に秀長が死去し、その跡を継いだ豊臣秀保も1595年に死去すると、大和豊臣家は断絶。
本多利久の子本多俊政は、秀吉の直臣となりました。
1598年、秀吉が死去すると俊政は徳川家康に与し、1600年、会津征伐に従軍。
関ヶ原の戦い後には25000石を与えられ、高取藩を立藩しました。
1637年、本多家は無嗣改易。城番が置かれた後、1640年、徳川譜代の家臣で旗本の植村家政が25000石で大名に取り立てられ、新たな藩主として入城すると、
以後明治維新まで植村家が続きました。現在の高取町長はその子孫だそうです。
訪問日:2016年3月13日(日)
観光案内所「夢創館」で100名城スタンプGet
はじめに麓の観光案内所「夢創館」に立ち寄りました。 夢創館周辺は「町家の雛めぐり」というイベントが開催中で、一眼レフを首にかけたおじさんおばさんカメラマンや、ストックを持ったハイカーなど、多数の人で賑わっていました。 案内所受付のおばさんによれば、普段は閑散としており、この時期だけの賑わいなのだそうです
八幡口登り口
夢創館から城跡まで歩くと片道一時間半かかるので、もう少し先まで車で進みます。 本丸近くまで続く道の終点に、3、4台停められるスペースがありますが、 その300m手前の八幡神社付近の路肩に停めて、八幡口登り口から登ることにしました。 こちらからのほうが、周辺の石垣を見ながら登れると、ネットの情報にあったためです。
地図
壷坂口門
登り口から5分で壷坂口門の石垣が見えました。
大手門跡
十三間多聞櫓
二の丸に入る門
二の丸下段
二の丸は上下段に分かれており、正面の石垣の上が上段。
十五間多聞櫓
二の丸上段への入口。
二の丸上段
新櫓跡と太鼓櫓跡。
本丸天守台の石垣
本丸入口の食違虎口
本丸
井戸跡
天守台
眺望
城跡に建物はありませんが、多くの石垣残されていました。
これだけの石をどうやってここまで運んだのか、いつも不思議に思います。
地面に落ちているたくさんの細かな瓦のかけらがそこに建物があったことの痕跡。こういうの好きです。
江戸時代になると山の上の城は不便で麓に屋敷を移すところが多いのですが、この城は幕末近くまで山上が機能していたそうです。
自分が着いたときはあまり人がいませんでしたが、後から多くのハイカーが登ってきました。
登っている時はそれほど疲れた感じはなかったのですが、車に戻ると少し足にきてました。
滞在時間は約1時間。
三の丸の向こうなど見なかったところがあり、また再登城したい城です。
この後、大阪府千早赤阪村の千早城に移動しました。