現在、松前城一帯は、松前公園として整備されています。11:30、公園に到着しました。
松前城
蝦夷地(北海道)には、11世紀頃から、和人が移住するようになったといわれています。
1457年、アイヌ民族との間に大きな抗争が勃発した際に、和人をまとめて争いを平定した「蠣崎信広」は、以後、蝦夷地における棟梁の地位を確立。
5代目にあたる慶広のときには上洛し、天下統一をした豊臣秀吉に謁見するなどして、蠣崎氏は独立した大名として扱われるようになりました。
秀吉の死後は、徳川家康に接近して、松平と前田から一文字ずつとった「松前」に改姓。
当初は、蝦夷島主として客臣扱いでしたが、江戸中期に、大名格となりました。
文化4年(1807)、ロシアの南下に伴い、蝦夷地は天領とされ、
松前氏は陸奥国梁川藩(福島県伊達市)に転封されましたが、
将軍家斉に請願し、文政4年(1821)に復領しました。
安政元年(1854)、北方警備を目的に幕府の命で、
それまでの本拠「福山館」を改築して、松前城を築きました。
これは、最後の、かつ北海道唯一の日本式城郭でしたが、
明治元年(1868)、榎本武揚を首領とする旧幕府軍の土方歳三に攻められ、
わずか数時間で落城してしまいました。
明治2年(1869)旧幕府軍は降伏し、再び松前氏のものとなり、
明治4年(1871)の廃藩置県で天守など本丸を除くほとんどの建造物が取り壊されました。
国宝に指定されていた3層の天守閣は、昭和24年に火災で焼失。
現在のものは、昭和36年に松前城資料館として、外観を忠実に復元し、鉄筋コンクリートで建てられました。
隣の本丸御門は築城時から現存するもので、重文指定されています。
広々としており、天気も良くて気持ちのいい場所でした。資料館はいまいちでした。。
天守閣(三重櫓)と本丸御門
内堀と天守
本丸御門(現存)
本丸表御殿玄関
搦手二の門
内側(二の丸)より
外側より
天神坂門
松前神社
旧北の丸に建立。
松前城模型
数時間で落城してしまったのは、城が搦手側(山側)からの攻撃を想定した造りになっていなかったことが一因といわれています。
松前藩屋敷
松前城に登城する前に、公園内の「松前藩屋敷」を見学しました。 松前藩屋敷は、江戸時代の城下町のにぎわいを14棟の建物で再現したテーマパークです。
漁家
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