2016年11月20日

100名城:広島県安芸高田市の吉田郡山城に行く

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(写真の山全体が郡山城)

郡山城<安芸国>

広島県の中央部、吉田盆地の北の郡山に築かれたこの城は、毛利元就が生涯にわたり本拠とした城です。 築城時期は不明ですが、1523年に元就が家督を継いだ頃は、まだ砦程度の小規模な城で、 元就のときに山全域が城郭化されたようです。

1591年、元就の孫の輝元が広島城を築城し、移ったことで役目を終え、 1615年、江戸幕府の一国一城令で取り壊されました。

毛利氏の発祥は神奈川県

毛利氏の祖は、源頼朝に仕えた大江広元。鎌倉幕府の創設メンバーであり、 全国に守護と地頭を設置することを頼朝に提案するなど、主に内政面で頼朝を支えました。

広元は、全国に広大な所領を与えられ、そのうち、相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市毛利台)を 受け継いだ四男の季光(すえみつ)が毛利を名乗りました。 その子孫が、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、 越後国佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)から安芸国吉田荘へ移り、 国人領主になっていきました。

国人領主から西国最大の戦国大名に

小規模な国人領主だった毛利家ですが、元就の代になり、急速に勢力を拡大します。 周防・長門を中心に、最盛期には北九州まで勢力を伸ばした大内氏、 出雲を拠点に、最盛期には山陰・山陽八か国の守護を務めた尼子氏を滅ぼし、 西国最大の戦国大名になりました。

元就の孫の輝元は、1583年、賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉が柴田勝家を破ったのを機に、 秀吉と同盟を結び、その臣下となります。 輝元は秀吉から厚遇され、安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐に加え、 備中・伯耆両国の西部、あわせて120万石を領有し、徳川家康に次ぐ大大名になりました。

しかし、1600年、関が原の戦いで西軍についたため、家康によって多くの所領を没収され、 周防・長門の2ヶ国、29万8000石に大減封されました。

安芸高田市歴史民俗資料館

最初に向かったのは、安芸高田市歴史民俗資料館。ここで、100名城のスタンプをゲットしました。 展示がとても充実していて、毛利氏の歴史がよくわかりました。 入館料は300円ですが、もう少しとってもよいぐらいです。

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毛利元就・毛利一族墓所

郡山城への道の途中に元就と一族の墓所があります。 1571年、元就が75歳の生涯をとじた後、翌年、輝元により菩提寺洞春寺が建てられ、境内に墓所が建てられました。 お寺は、現在、山口県に移っていますが、お墓はその当時からのものです。

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一族のお墓は、各所にあったものを明治になってここに集めたそうです。 左から、元就の兄の興元、その子幸松丸、元就の長男の妻、季光の孫の時親から元就の祖父の豊元までの8代の合祀、 とお墓が並んでいます。

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郡山城散策

全体的に眺望はあまりよくありません。お墓から城跡に向かう途中で、城下の町が少しみえました。

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お城は一国一城令のときに徹底的に壊したそうで、建造物の遺構はありません。 三の丸周辺に散乱した石垣が残る程度です。

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二の丸から本丸方向を見たところ。元就が、もう少し麓に近い場所にあったものを山頂に移したそうです。

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本丸を囲む各尾根上には、段々になった郭があります。下の写真はそのなかでも規模の大きな「勢溜の壇」。 本丸を守る兵が滞在していたようです。

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旧本城本丸

元就より前の時代の本丸。本丸への登城ルートから分かれて、500mほど離れた場所にあります。 こちらまでは、城マニアでないとあまり行かないようです。 目的地を目前にして道がわからなくなり、最後は手を使ってよじ登りましたが、 おそらく道は間違っていなかったと思われます。

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清神社(すがじんじゃ)

最後に城山の麓にある清神社に立ち寄りました。創建は築城よりも古く、神代からの鎮座と伝えられています。 「サンフレッチェ広島」が毎年必勝祈願をする神社だそうです。

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時刻は15:30過ぎ。ここから東京に戻ります。帰りは、神戸と四日市でしっかり渋滞にはまりました。 今回、総じて運転中は比較的元気でしたが、さすがに運転開始から6時間経過してからの渋滞は堪えました。 おまけに、通常は渋滞になることなく、爆走している伊勢湾岸道の名港付近も事故渋滞。 休憩は土山SAと足柄SAの2回で、自宅には、出発から11時間30分弱、ちょうど3:00頃に着きました。






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