佐野市の唐沢山城からそのまま、車で忍城に移動しました。 移動時間は1時間15分ぐらいで、到着したのは13時45分でした。
難攻不落の浮き城
忍城は、山内上杉氏配下の武将だった成田氏により、15世紀後半に築城されたと伝えられています。成田氏は山内上杉家当主が上杉謙信のときに後北条氏に寝がえり、
秀吉との小田原合戦は後北条方として参加しました。
当主の成田氏長は小田原城に籠城し、家臣が忍城に籠城。忍城は、石田三成の水攻めにも耐えますが、小田原城の開城を受けて、やむなく開城しました。
その後は、関東に入国した徳川家康の持ち城となり、はじめ家康四男の松平信吉に与えられますが、1600年、信吉は井伊直政ともに関ヶ原の戦いで武功を挙げて清洲藩に加増移封して、
一時天領となります。
1633年に老中の松平信綱(島原の乱を鎮圧)が入城、
1639年に老中の阿部忠秋(由井正雪の乱後、浪人対策で活躍)が入城して、
以後は184年間、阿部家が忍藩を治めました。
1823年(文政6)の三方領地替えで、阿部家が久松松平家(家康の異父弟の家系)がいた白河藩に移ると、桑名藩から奥平松平家(家康長女の嫁ぎ先の家系)が入封し、そのまま明治維新を迎えました。
本丸の土塁
大政奉還後、忍藩は新政府側について、忍城は戦禍を免れましたが、明治6年には主な建物は競売に付され、遺構は土塁を残すのみになりました。これがその土塁です。これだけです。。
続100名城スタンプ
本丸跡には行田市郷土博物館が建てられおり、スタンプは博物館の入口に置かれていました。
御三階櫓(復興)
往時は三の丸南方にあった櫓を、昭和63年に本丸跡に復興したもの。 城の形をしたビルでした。中は博物館の一部になっています。
郷土博物館には、江戸時代の城の絵図がたくさん展示されていました。
それを見ると、沼地を堀、島を曲輪として作られた特徴のある城だったことがわかります。
残っていたら面白かったでしょうが、それだけに維持も難しかったようです。
残念ですが、無くなってしまったのは仕方なかったかもしれません。
忍東照宮
忍城跡の道を挟んだ向かいに小さな東照宮があったのでお参りしてきました。 奥平松平家が桑名から転封の際、一緒に遷座されたものだそうです。
郷土博物館の見学も含めて滞在時間は1時間30分ほどでした。時刻は15時過ぎ。
朝から歩き回ってもうくたくたでしたが、博物館の古墳の展示を見て、面白そうだったので、
今日の最後に「さきたま古墳公園」に行ってみることにしました。
さきたま古墳公園
行田市埼玉(さきたま)周辺は、大型古墳が集中している場所として全国的に有名で、埼玉の県名発祥の地でもあるそうです。
古墳の被葬者は、武蔵国造一族と考えられています。
総面積約37ヘクタールの広大な公園として整備されています。
着いたのは15時40分。暑かったので、9つの古墳のうち、4つだけ見てきました。
こうした古墳を見たのはおそらく初めて。その大きさに驚きました。
滞在時間は40分程度でした。
石田堤
丸墓山古墳に向かう途中の桜並木の道は、小田原合戦で石田三成が忍城を水攻めする際に築いた堤だそうです。元々城めぐりで来たので、ここでも城に関係するものが見られてよかったです。
丸墓山古墳
直径105m、日本最大の円墳とのこと。登ることができます。
石田三成がこの頂上で陣を構えたそうです。登ったところからは、忍城の櫓が見えました。 三成は古墳であることを知っていたのでしょうか。。
稲荷山古墳
前方後円墳。さきたま古墳群のなかで最も古い古墳だそうです。こちらも登ることが可能。 1968年の発掘調査で出土した鉄剣には、日本書紀の記述と一致する内容の文字が刻まれていることがわかったそうです。
将軍山古墳
前方後円墳。中が展示館になっているみたいですが、見逃しました。
二子山古墳
武蔵国の中で、最大の前方後円墳だそうです。