続日本100名城:山梨県甲府市の要害山城に行く

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芝桜を本栖湖リゾートで見てから、要害山城に登城しました。

甲府市藤村記念館

はじめに続100名城スタンプ設置場所の藤村(ふじむら)記念館に立ち寄りました。 甲府駅前にある30分無料の駐車場に車を停めると、目の前にある目立つ建物が目的地でした。
記念館の建物は、明治前期に山梨県令(知事)だった藤村氏が奨励した擬洋風建築によって建てられた旧小学校の校舎で、 平成22年にここに移築されたものだそう。かつて甲府市内には、こうした建物がたくさんあったそうです。

スタンプは入口を入ったところにあり、自由に押せるようになっていました。 押していると職員のかたが要害山のガイドマップをそっと手渡してくれました。 山登りにガイドマップは大事です。

要害山城

武田氏と要害山城の歴史

甲斐武田氏の祖は、河内源氏2代棟梁、源頼義の三男の源義光。 源氏の英雄、源義家は義光の兄にあたります。

義光の子、義清(2代)が「常陸国那珂郡武田郷」を本貫として武田姓を名乗ったのがはじまり。 もともと茨城出身とは知りませんでした。

その後、義清は嫡男・清光とともに常陸を追放されて甲斐に配流。 そこで、清光(3代)は巨摩郡逸見郷に住み着き、逸見(へみ)姓を名乗りましたが、 清光の次男・信義(4代)が武田姓を名乗りました。

武田信義は平家追討で活躍するも源頼朝から警戒されて失脚しますが、 五男・信光は生き残り、武田氏を継承。甲斐守護のほか安芸守護にも任じられました。

鎌倉後期になると宗家は安芸を継承し、甲斐は庶流の石和流武田氏が継承していましたが、 武田信武(10代)が、後醍醐天皇から離反した足利尊氏と合流。 南朝方についた庶流は排され、信武が甲斐守護にも任じられました。

武田信満(13代)は、1416年に関東で起こった上杉禅秀の乱で、 前関東管領の禅秀方につきました。禅秀が敗れると、信満も鎌倉公方の足利持氏に討たれてしまいます。甲斐は守護が一時不在となり、国人勢力や守護代の跡部氏らが台頭して、乱国状態となりました。

甲斐国が統一されたのは、信玄の父、武田信虎(18代)の頃でした。

信虎は、永正16年(1519)、石和にあった居館を、躑躅ヶ崎に移し、 その翌年から、躑躅ヶ崎館の背後に詰城とする山城の構築を始めました。 それが要害山城です。

要害山城は、標高770m、比高260mの険しい山に築かれた山城で、 山頂部に本丸を置き、そこから東西に延びる尾根に曲輪を塁段状に設けた連郭式山城でした。

武田氏滅亡後、豊臣系大名、加藤光泰の甲斐領有期に修築されますが、 慶長5年(1600)に廃城になりました。

要害山城訪問記(2018/05/04)

甲府駅前から移動。カーナビは要害温泉でセット。 躑躅ヶ崎館の前を通りながら目的地に向かいました。正面に見える山が要害山です。

要害山城

橋の渡ったところが要害山の登城口。橋を渡らず左の道を少し上がったところに駐車場があります。

要害山城

橋の上から。車が見えているところが駐車スペースです。

要害山城

登城口にある地図。

要害山城

要害山遊歩道の入口。

要害山城

竪堀跡

草木に覆われてわかりにくいですが、山の斜面に沿って縦に掘られています。

要害山城

土塁

「竪堀と並行して斜面に沿って縦に盛られた土塁」とのことですが、草木に覆われてよくわかりませんでした。。

要害山城

門跡

最初に出てきた門跡。

要害山城

曲輪

最初に出てきた曲輪。草木が多くてよくわかりません。(^^ゞ

要害山城

不動曲輪

名称は江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するそうです。

要害山城

ガイドマップには、この曲輪から少し上がったところの反対側に井戸跡があり、 探したのですが、道が塞がれているようでよくわからず。

門跡

もっとも堅固な門があったところだそうです。

要害山城

曲輪

このあたりから曲輪の案内板がたくさん出てくるのですが、どこも草木に覆われて同じような感じなので省略。

要害山城

門跡

山頂まであと少しです。

要害山城

山登りの途中、眺望はずっとよくなかったのですが、木々の間から少しだけ甲府の街が見えました。

要害山城

ヤマツツジ。

要害山城

門跡

主郭部への正面玄関にあたる門。中は主郭部になります。

要害山城

主郭部

「武田信玄公誕生の地」の石碑。 大永元年(1521)10月、今川家臣の福島氏が甲斐へ侵攻してきたとき、 正室の大井夫人は要害山城に避難していたといわれ、信玄はここで生まれたと伝えられています。石碑の書は東郷平八郎とありました。

要害山城

主郭を囲う土塁上に立つと富士山が見えました。感激。

要害山城

主郭部を入ってきた方向の反対から撮ったところ。

要害山城

門跡

主郭部の正門と反対側の門。

要害山城

堀切跡

主郭部反対側の門を出たところに石垣を使った堀切があります。 写真では判りにくいですが、ここが一番見ごたえがありました。

要害山城

散策はこれで終了。来た道を戻りました。 入口から頂上の主郭部まで、所要時間は写真を撮りながら40分くらい。下りも合わせて約80分の山登りでした。 新緑の季節ということで、城の遺構は草木に覆われてよくわからないところが多かったのですが、山のスケールを感じながら楽しく登ることができました。

積翠寺

要害山の麓、標高530mにある古社。 信玄が要害山城で生まれた際に産湯を汲んだと伝わる井戸があるとのことで帰りがけに立ち寄りました。

要害山城

境内を出たところの道から甲府の街がきれいに見えました。 中央下の池の右横の緑が「躑躅ヶ崎館」です。結構広いですね。

要害山城

続いて新府城に移動しました。



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