続日本100名城:山梨県韮崎市の新府城に行く

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要害山城からの移動。続100名城は、渋い山城が多いせいか城址とスタンプ設置場所が離れている場所が多いように感じます。ここもそのひとつ。 あらかじめ確認した口コミ情報で「民俗資料館でガイドマップをもらってからお城に行った方がいい」とあり、 先にスタンプ設置場所の韮崎市民俗資料館に立ち寄りました。

写真は、民俗資料館に隣接して展示されている「韮崎宿豪商(富屋)の蔵屋敷」。 「阿母里基督教会」の看板は、ここが2014年の連続テレビ小説「花子とアン」のロケセットとして使われたときのものです。

新府城

新府城【甲斐国巨摩郡】の歴史

当時の武田氏は、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した後、8月には遠江の諏訪原城を徳川氏に、 11月には美濃の岩村城を織田氏に奪われると、天正6年(1578)、上杉氏で起こった御館の乱をきっかけに後北条氏との同盟も破綻し、 駿河方面では北条氏政の攻勢を受けるようになりました。 こうしたなか領国の防衛体制を強化するため、天正9年(1581)1月、新たな本拠として新府城の築城が始まりました。
しかし、3月に遠江の高天神城が落城すると、織田・徳川からの調略が激しくなり、 天正10年(1582)2月には、信玄の娘婿である木曾義昌が離反。 これをきっかけに織田軍の侵攻がはじまります。

木曾征伐にむけて出陣した勝頼でしたが敗北し、新府城に撤退。 新府城を放棄し、小山田信茂の守る岩殿城に逃れることとなります。 勝頼が新府城に在城した期間はわずか68日だったそうです。

岩殿城を目指した勝頼と妻、桂林院、嫡男信勝一行ですが、その途上で小山田信茂の離反に遭い、 天目山へ逃亡。織田方、滝川一益の軍勢との戦いの末自刃し、武田宗家は滅亡しました。
なお、武田氏を裏切った小山田信茂も織田家によって処刑されています。

新府城訪問記(2018/05/04)

韮崎市民俗資料館からの移動で、城の北東にある砂利の駐車場に車を停めました。 以下は、駐車場から見た新府城。南北600m、東西550mの平山城です。

新府城

ここから資料館でもらった「新府城と七里岩」というガイドマップを参考にして、 北側から反時計回りで遺構を見ていきました。下の縄張図は本丸にあったもの。

新府城

東出構

出構(でがまえ)とは、城の外郭の一部を長方形に堀の中へ突出させ、敵兵を射撃するための陣地のこと。 城の北側に東西2つ築かれています。武田の城に見られる特徴的なものだそう。

新府城

西出構と鳳凰三山

奥に連なる山がとても格好よかったので調べてみたところ、南アルプスの鳳凰三山という山でした。

新府城

乾門枡形虎口

北西の虎口からお城のなかに入りました。 なかなか立派な虎口ですが、大手口は城の南東にあるのでこちらは搦手。

新府城

大井戸

周囲を回りながら降りていき、底で水を汲んでいたようです。

新府城

二の丸

勝頼の嫡男、信勝の屋敷があったと考えられるそうです。 草ぼうぼうですが、周囲が土塁で囲まれているのがなんとなくわかります。

新府城

本丸

二の丸のすぐ東側が本丸です。

新府城

本丸北東に建つ武田勝頼公の霊社。

新府城

北側の土塁の上から見た「八ヶ岳」。 新府城が築かれている七里岩台地は八ヶ岳の噴火のときに溶岩などが流れ出てできたのだそうです。

新府城

本丸東側に建つ藤武稲荷神社は、 「勝頼公が新府築城の節、城内稲荷郭に鎮守として祀った」のがはじまりで、 その後徳川家康によって再建されたとのこと。

新府城

シトミの構え

本丸の南西角にある「シトミの構え」と呼ばれる植え込みは、 本丸の中が外側から見えないようにする役割があったとのことですが、 今は城内シトミだらけなので、どの部分のことを指して言っているのかよくわかりませんでした。。

新府城

二の丸南の腰曲輪の食違虎口

新府城

西三の丸

西側から三の丸を見たところ。三の丸は奥にみえる土塁で東西に分けられており、 土塁の向こう側に東三の丸があります。

新府城

大手枡形虎口

新府城で一番大きな虎口。ここから先が新府城の見どころです。

新府城

枡形のなか。枡形を出たところが丸馬出です。

新府城

丸馬出

虎口を防御するための場所で、外側に半円状に丸く土塁が築かれており、左右に虎口が設けられています。

新府城

下から見た丸馬出と三日月堀

丸馬出の先は半円状の堀でさらに防御を固めていました。すごいです。

新府城

以上で散策終了。滞在時間は1時間20分ほどでした。



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