「三連休なのでどこかの城に行っておかないと」ぐらいの気持ちで自宅を9:30少し前に出発。 家を出る前は、常磐道が空いてそうだったので土浦城に行くつもりだったのですが、 首都高の入口で事故渋滞の表示を見て、急遽東北道に変更。 と言っても近場は登城済みなので、必然的に東北ドライブになりました。 途中休憩をとりながら、5時間かけて会津・向羽黒山城の入口に到着しました。
向羽黒山城の歴史
向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)は、 白鳳三山(観音山、羽黒山、岩崎山)の主に岩崎山全域と羽黒山の一部に広がる東日本最大級の山城です。 1561年に、当時、黒川城(現在の会津若松城)を本拠にしていた蘆名氏の16代当主 蘆名盛氏 (あしなもりうじ)により、息子盛興に家督を譲った後の隠居の城として築かれました。天守閣があるような近世城郭ではなく、館のようなものだったそうです。
しかし、1575年に盛興が29歳で急死したため、盛氏は人質としていた二階堂盛隆を養子にとり、その後見人として政務に復帰します。1580年盛氏死去後は盛隆が実権を掌握しましたが、1584年、23歳のとき家臣に殺害され、蘆名氏は弱体化していきます。1589年、20代当主蘆名義広のとき、伊達政宗に黒川城を攻められ、義広は実家の佐竹氏が支配する常陸国に逃走。蘆名氏は没落しました。
盛氏が政務に復帰して以降、向羽黒山城は廃城になったとされていますが、 蘆名氏以降会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも、城として機能していたと考えられています。 1601年、上杉氏の米沢移封により、完全に廃城となりました。
スタンプ設置場所
入口の看板の左の細い道を少し上がったところにスタンプ設置場所の向羽黒山城跡整備資料室がありました。 資料室は閉まっていましたが、スタンプ台は建物の外に置かれており、24時間押印可能でした。 スタンプ台の下に2種類の案内MAPが置かれており、これを頼りに散策することにしました。
向羽黒山城の遺構
東日本最大級の山城とのことでしたが、車でだいぶ上まであがっていけて助かりました。 駐車スペースも何か所か設けられていますが、手前の駐車場はパスし、御茶屋場曲輪前に車を停めて散策をはじめました。
御茶屋場曲輪
この城で一番眺望がいいのはここだったりします。
奥に見える山の右側一番高いところが磐梯山のようです。
御茶屋場曲輪の反対に二曲輪へ登る階段がありましたが、きつそうだったので、 さらに上の一曲輪との間にある駐車場まで移動し、そこから登ることにしました。
二曲輪の虎口
説明版には坂道の途中に石積石垣があると書いてありましたがよくわかりませんでした。
二曲輪
城主の居所があった場所。説明版によれば、「本丸」「二の丸」という呼びかたは近世城郭以降のもので、 それ以前の山城は「曲輪」というようです。
ヤマユリがやたら咲いていました。
展望台からの眺望。
会津若松城もはっきり見えました。
三日町口虎口
入ってきた虎口の反対側の階段から、ガイドのおじさんに案内されながら登ってきた人がいました。 何かありそうな気がして、少し降りてみると、立派な虎口がありました。
虎口手前の空堀も目を引きました。写真だとあまり伝わらないかも。
空堀の反対側にちょっとしたスペース。
二曲輪の虎口を戻り、一曲輪に向かいます。
一曲輪・二曲輪間の堀切
現在は道路になっており、元の地形はなくなっているでしょう。手前が二曲輪、向こうが一曲輪。
一曲輪側。まだアジサイが咲いていました。
一曲輪への登城口
急な階段を上っていきます。一曲輪はまだ先です。
階段脇にはすごい竪堀。これはインパクト大でした。
今日は命の危険もあると言われている猛暑日。時刻は15:30。
一気に汗が吹き出し、熱中症で倒れそうになりながら登りました。階段の途中では、蛇も出てきて驚きました。
途中にも立派な空堀があります。
ようやく見えた虎口。
最後の階段と思ったら・・
もう一つあり・・
一曲輪
ようやく一曲輪に着きました。
櫓的なものがあったとされる場所からの眺望。
堀切
一曲輪へのもうひとつの登城口の途中に大きな堀切があるというので、少し下りて見てきました。
感想
見学時間は、約90分(14:40-16:10)でした。暑かったし、広大な城なのですべてをまわるつもりは元々なく、 下調べも無しに行った割には、見どころは抑えられたのかなぁと思います。 一曲輪への登りだけでも、十分この城の凄さを味わえました。 会津は町も自然も美しいですね。今度は裏磐梯のほうに行って見たいです。