高天神城からの移動。諏訪原城は高天神城と大変つながりの深いお城です。
続100名城スタンプは第一駐車場
公式ガイドブックにあるスタンプ設置場所の「第一駐車場パンフレット置き場」がどこかと思いながら、
現地に向かうと、大胆にも以下の写真の場所でした!
駐車場横ではガイダンス施設が建設中ですが、今のところ野ざらし。
雨の日がどうなっているのかちょっと心配になりました。。
諏訪原城【遠江国】の歴史
1569年、徳川家康が今川氏真が籠城する掛川城を開城させ、今川氏が滅亡すると、
遠江は家康の支配下に置かれますが、駿河に侵攻してた武田氏とすぐに争うようになり、
掛川城南方の高天神城は武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となりました。
1573年、三方ヶ原の戦いで徳川軍を破った武田信玄は、高天神城攻略の拠点として、
牧之原台地の舌状台地先端部に諏訪原城を築城。
信玄の跡を継いだ勝頼は、1574年、この城を拠点にした攻撃で高天神城を手中に収めました。
しかし、武田軍が1575年の長篠の戦いで大敗すると、家康が反攻に転じ、諏訪原城を奪います。
今度は、家康がこの城を高天神城攻略の拠点として活用。1581年に高天神城は落城し、ふたたび徳川方の城ととなりました。
1582年、武田氏が滅亡すると諏訪原城の存在意義は薄れ、家康が関東移封となった1590年頃に廃城となりました。
諏訪原城訪問記(2018/09/16)
スタンプ台のところにあったパンフレットを頼りに城跡を一周しました。
大手南外堀
大手曲輪
お茶畑になっていました。
大手北外堀
惣曲輪
二の曲輪中馬出
最も迫力があった場所です。三日月堀と曲輪がセットになった「丸馬出」は武田流築城術の典型なのだそうです。
二の曲輪北馬出の門(復元)
二の曲輪
二の曲輪は、南北315m東西75mの広大な曲輪です。こちらは北側。中馬出の虎口を入り、東の本曲輪の方向を見たところ。
内堀
二の曲輪と本曲輪の間の堀。
本曲輪虎口
本曲輪
本曲輪からの眺望
東側は断崖絶壁で、大井川や大井川鐡道がみえました。
カンカン井戸
内堀のなかにある井戸。
水の手曲輪
足元が悪い中、先まで歩いて行ったものの、どこを指すのかよくわかりませんでした。
二の曲輪
こちらは南側。北方向を見たところ。奥に見えるのがおそらく北と南を仕切る土塁です。
外堀
二の曲輪東内馬出
二の曲輪南馬出
二の曲輪大手馬出
旧東海道に出たところ
ヒガンバナ(曼珠沙華)が少し咲いていました。
以上で散策終了。所要時間は約一時間でした。(15:15-16:20)