今日は御茶ノ水でとあるテストを受検。
せっかく街に出てきたので、神田明神と湯島聖堂まで少し散歩してきました。
聖橋からの景色。
神田明神
社伝によると730年に、大己貴命(おおなむちのみこと)を祖神として、武蔵国豊島郡芝崎村(現・千代田区大手町)に創建されたのがはじまり。
1309年に東国の英雄、平将門公が合祀され、太田道灌、北条氏綱ら武将によって崇敬されます。 関ヶ原の戦いで徳川家康が戦勝祈願をすると見事勝利し、1616年に江戸城の表鬼門にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
明治時代に入って皇居の守護神と定められ、1874年には商売繁盛の神、少彦名命(すくなひこのみこと)を合祀。 関東大震災によって社殿は喪失しますが、1934年に鉄骨鉄筋コンクリート構造で再建。 戦後、随神門などの建造物も再建され、江戸東京を代表する神社としての景観が整えられました。
鳥居。正式名称は神田神社。
随神門。
社殿。
狛犬。
社殿より境内。
湯島聖堂
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。
もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災により、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失。 その後「假聖堂」を営み、昭和10年(1935)、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。
正門を入ったところ、仰高門。
案内図。
入徳門。江戸時代からの現存。
杏壇門。
大成殿。