続日本100名城:新潟県上越市の高田城に行く

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本日2城目。妙高市の鮫ヶ尾城からは約20分で着きました。

高田城【越後国頚城郡】の歴史

1586年、春日山城を居城とした越後の大名、上杉景勝は、 上洛して豊臣秀吉に臣従すると、越中と上野の領有を放棄する代わりに、 下越の新発田重家や出羽の庄内地方の切り取りを許可されます。

1587年、新発田重家を討ち、越後をほぼ統一。1588年、庄内3郡を手中に収め、1589年には佐渡を平定します。 1595年には、秀吉から、越後、佐渡の金銀山の支配を任され、五大老にも任じられ、支配領域は91万石になりました。

1598年、景勝は蒲生氏に代わり、伊達家の抑えとして、会津120万石へ転封となり、 越後には秀吉家臣の堀秀治が越前北ノ庄から30万石で入封しました。

堀氏は、関ヶ原の戦いで東軍につき、戦後、所領は安堵。 山城の春日山城に代わる城として、福島城を築城しますが、 内紛によって1610年に改易されました。

福島城には、徳川家康六男・松平忠輝が、信濃川中島から60万石で入城します。 これには加賀の前田家を牽制する目的があったようです。

忠輝は、1614年に、天下普請によって高田城の築城に着手。 普請には上杉景勝や前田利常など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅の伊達政宗が就任。 城はわずか4か月で完成したそうです。

しかし、忠輝は、大坂の陣後の1616年に改易。理由は諸説ありますが、ともかく家康、秀忠に嫌われた人だったようです。

続いて酒井忠次(徳川四天王)の子・酒井家次が上野高崎より10万石で入封しますが、1618年に死去。 その子、忠勝は、1619年に松代藩へ移封となり、代わって結城秀康の次男・松平忠昌が入封しました。

1623年、忠昌は兄・忠直の改易に伴い、宗家を継いで福井藩主となります。 高田藩には1624年、忠直の子の松平光長が入封しますが、 嫡男の死去をきっかけにお家騒動(越後騒動)が起こり、1681年に改易になりました。 (のちに光長の家系は復興を許され、1698年、養子の松平宣富(のぶとみ)が津山藩主となり以後明治維新まで続きました)

その後、幕府直轄が4年。 それ以後、高田藩は不始末を犯した親藩、譜代大名の懲罰的な転封先の扱いとなりました。

1685年、春日局の子・稲葉正勝の孫にあたる稲葉正通が小田原より入封。 将軍綱吉に、綱吉擁立に反対した家綱時代の大老・酒井忠清に近かったことが嫌われたようです。

1701年、正通が老中として幕政に返り咲き、佐倉に移封になると、 佐倉藩から戸田忠真(ただざね)(渥美半島を支配した徳川譜代の家柄)が入封。 原因は不明ですがこれも何か綱吉の不興を買ってのことだったようです。

1710年、忠真は綱吉の死去後に、関東の重要拠点・宇都宮に移され、 桑名藩から松平定重(久松松平氏)が入封。 こちらは、桑名で起こした家臣に対する大粛清事件(野村騒動)を幕府に咎められてのことでした。

1742年、久松松平氏は、5代続いたのちに陸奥白河に移り、 姫路藩から榊原康政(徳川四天王)の子孫、榊原政純が入封。 これは、父・政岑(まさみね)が倹約令を無視して吉原で豪遊、花魁の6代目高尾太夫を身請けするなどの行動が、 将軍吉宗の怒りを買ったといわれています。

それ以後は落ち着き、榊原家が続き、明治維新を迎えました。

高田城訪問記(2018/10/06)

駐車場は周辺にいくつもあるようでしたが、 カーナビで「高田城跡」と指定したところ、本丸正面入口手前の駐車場を案内され、 そこには「三の丸跡」と書かれた説明板がありました。

高田城

高田城は、正方形の本丸を囲うように広い内堀があり、その周囲を囲うかたちで二の丸があります。 三の丸は、その外側の北東と南西に張り出して2つ作られ、 北東には米蔵、南西から南の三の丸には、城代屋敷や武具蔵が置かれました。

この場所は南の三の丸。ただ、明治に入ってから、 二の丸との間にあった中堀は埋められ、堀に面した部分にあった土塁も崩されており、 現在、二の丸との境界ははっきりわかりません。

南三の丸から二の丸方向

高田城

広大な二の丸と三の丸は、公園になっていたり、住宅地になっていたりします。 まずは、本丸に向かうことにしました。

三階櫓と内堀と本丸土塁、その上に立つ三重櫓

高田城

内堀(南)と極楽橋

高田城

内堀(南東)と本丸土塁

内堀はどこから見ても大変綺麗でした。

高田城

内堀(南西)

高田城

極楽橋

それでは極楽橋を渡って本丸のなかへ。 明治時代に橋は壊され、堀は埋められて陸続きにされましたが、平成14年に復元したそうです。 堀が復活したのはつい最近のことなのですね。。

高田城

本丸

かつて本丸には城主が生活した御殿がありました(明治に焼失)。 本丸に入る虎口は、本城御門(南門)、東不明門、北不明門の三か所で、南門と東門は内枡形門だったそうです。 枡形とは出入口を塁で四角に囲い、防備を固めた施設。 現在は枡形がなくなっており、広々しています。御殿のあった場所には、今は中学校が建てられています。 現在は西側にも出入口がありますが、これは明治以降に作られたものとのこと。

高田城

高田城

高田城

東不明門

高田城

三重櫓

平成5年に復興されたもの。規模は稲葉氏時代とほぼ同じで、外観は松平光長時代の絵図を参考にしているそうです。 1,2階は高田城関連の展示室で、3階は展望室になっています。展示は良くまとめられていて、歴史がよくわかりました。 建物は、25年前のものとは思えないほど綺麗でした。

高田城

三重櫓の建つ土塁上から本丸を見たところ。 前に見えている建物で、100名城のスタンプを押し、櫓の入場券を購入しました。

高田城

三重櫓から南方向の眺望。 中央に見える山は妙高山です。

高田城

西入口から三重櫓。西入口は江戸時代以前はなかった出入口です。

高田城

北不明門

二の丸側から。本丸側は学校の敷地になっており、見ることができません。

高田城

内堀(北西)

北側の内堀はこんな感じでした。

高田城

上越市立歴史博物館

西二の丸にある博物館。今年の7月21日にリニューアルオープンしたばかりでピカピカでした。 博物館は見学しなかったのですが、あまりの暑さにソフトクリームの看板につられて中に入りました。

高田城

私には不似合いなオシャレなソフトクリーム。味は濃厚でした。

高田城

高田城

外堀(西堀)

二の丸の外側の堀。蓮が植えられているのは、明治期に失職した旧士族のための殖産業として栽培がおこなわれたためだそうです。

高田城

以上で高田城の散策は終了。見学時間は1時間40分(12:05-14:45)でした。

それほど有名な人が城主だったわけではありませんが、 江戸時代に天下普請で築かれた越後の中心的な城で、 本丸を中心に遺構も良く残っているということで、 続100名城に選ばれたのでしょうか。

今日の上越市は季節外れ暑さで最高気温は34度だったそう。さすがにバテました。。 このあと本日3城目の城として、同じ上越市の春日山城に行く予定だったのですが、 さすがにもう山城はきつかったので、長野県佐久市の龍岡城に変更。龍岡城に続きます。。





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