2018年10月 6日

続100名城:長野県佐久市の龍岡城に行く

新潟県上越市の高田城から移動。本日最後の目的地は佐久市の龍岡城です。 五稜郭といえば函館が有名ですが、実は日本には2つ五稜郭があり、 ここはもうひとつの五稜郭です。

100名城スタンプは、城に隣接する「五稜郭であいの館」にありますが、閉館時刻は16:00。 ナビに表示された到着時刻は、はじめ16:00を少し過ぎていましたが、 実際に着いたのは15:40で、少し余裕がありました。

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龍岡城【信濃国】の歴史

大給(おぎゅう)松平家は、徳川家康の5代前の松平家当主、松平親忠の次男、乗元より始まる一族で、 代々松平宗家の家臣として仕えました。 江戸時代は譜代大名4家(西尾藩、府内藩、岩村藩、奥殿藩)のほか、数多くの旗本を出しました。

大給松平家5代当主、松平真乗(さねのり)の次男で、徳川秀忠に仕えた真次(さねつぐ)が、 大坂の陣後、6000石の旗本として、先祖ゆかりの地である三河国加茂郡大給(愛知県豊田市)に陣屋を構えました。 1684年、子の「松平乗次」が大坂定番(大坂城副城代に相当)になると、同時に摂津、丹波、河内などで1万石の加増を受け、 1万6000石の大名として、大給藩を立藩しました。

大給藩3代藩主、乗真(のりざね)のとき、近畿に代わって佐久郡田野口に同石高の領地が与えられ、 また、藩庁を奥殿村(愛知県岡崎市)に移し、奥殿藩に変わりました。

奥殿藩8代藩主、乗謨(のりかた)のとき、幕末期を迎えます。 乗謨は幼時より英明の素質を持った人物。 1863年、幕府から信濃国への陣屋移転と新築許可を得て、星形要塞の築城を開始します。 藩は田野口藩に変わりました。 1866年には老中、陸軍総裁に任じられ、幕府を支えます。 1867年、政務と藩主の住居を兼ねた御殿が完成。 堀は、南西と西の2稜堡(りょうほ)を囲う200mが、未完のままとなりました。

1868年、戊辰戦争がはじまると、新政府軍につき、龍岡藩と改称。 1871年、財政破綻のため、廃藩置県の前に廃藩となり、1872年に、城は解体されました。 城内は明治8年から現在まで小学校として使われています。

訪問記

「五稜郭であいの館」で100名城スタンプGet

まずは100名城スタンプを確保し、それから、 館のおばさんに少し離れた場所にある展望台への道順を詳しく教えてもらいました。

せっかくの五稜郭なので、上からその形状を確認できる、展望台は外せないところ。 しかしそこは函館の五稜郭タワーと違い、簡単に行ける場所ではありません。

行きかたは、徒歩と車と2パターンあり、徒歩は20~30分の山登り。 車は、すれ違いのできない細い、未舗装の道を2Kmほど上ります。

車の道は、轍ができていて、車高の低い車は下を擦ってしまうとのこと。 「早い時間なら徒歩をおすすめする」と言われましたが、 もたもたしているともう日が暮れる時間で、ここが今日3城目で山登りは無理。 車で行くことにしました。

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展望台に行く前に、城跡をざっと歩いて回りました。

水堀

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大手門

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城内

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土塁上より水堀

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お台所

御殿の一部。学校としての使用が認められたため、唯一残されました。昭和4年に現在地に移されました。

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展望台

道を教えてもらったおかげで、迷うことはありませんでしたが、 教えてもらったとおり、緊張感のある道でした。 「おばさんたちもこの道を通っているんだからすごい」と思いながら進みました。

僅かな駐車スペースに車を停め、少し先まで歩いて行くと展望台入口の看板があり、 そこを入っていくと、右側少し下がったところに展望台がありました。

かつてこの山の山頂には田口城があり、もう少し上がっていくと城跡もあるようですが、 暗くなると帰りが怖いので、寄らずに下りました。

展望台入口

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展望台

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展望台からの眺望

北東から南西を見ている感じ。五稜郭が綺麗に見えました。佐久盆地もきれいでした。

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展望台の駐車スペース

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見学時間は、展望台への移動も含めて、45分(15:45-16:30)でした。

帰りも渋滞はなく、19:30には自宅に着きました。








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