今日は群馬県の続100名城のお城、沼田城と名胡桃城に出かけてきました。 関東だからと油断して少し遅めの時間に家を出たら、大渋滞に遭遇。 1城目の沼田城まで4時間かかり、到着は13:20。紅葉シーズンを甘く見ていました。
沼田城【上野国利根郡】の歴史
沼田城は、1532年頃、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代目、沼田顕泰(あきやす)によって築城されました。
北陸から関東へ至る要衝の地にあるこの城は、以後、越後の上杉氏、小田原の後北条氏、
甲斐の武田氏などの戦国大名によって激しい争奪が繰り広げられることになります。
1580年、武田勝頼の命を受けて、信濃の豪族、真田昌幸が沼田城を攻略。
1582年、織田信長に武田氏が滅ぼされると、城は一時信長家臣の滝川一益の支配下に置かれますが、
本能寺の変を機に、ふたたび昌幸が奪回しました。
真田昌幸は、徳川家康、北条氏直からたびたび攻撃されながら、これを撃退。
その姿が、天下統一を目指す豊臣秀吉から認知されるようになり、
1587年、上杉氏を介して正式に秀吉の家臣になりました。
1589年、秀吉が、後北条氏と真田氏が争う沼田領について、
「おおよそ利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を後北条氏に、名胡桃城を含む西部一帯を真田氏に」という裁定を下します。
この裁定に基づいて昌幸は沼田城を後北条氏に明け渡しますが、
1590年、城代となった後北条氏家臣、猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を攻撃する事件が勃発。
これが、秀吉が発した大名同士の戦争を禁じた惣無事令違反とされて小田原征伐がはじまり、後北条氏は滅亡しました。
その後、沼田城は真田氏に与えられ、城主となった昌幸の長男、
真田信幸は、近世的な城郭への整備をすすめました。
そのころを表した模型と絵図が、「沼田市観光案内所」、「沼田公園」にそれぞれありました。
北から南方向をみた模型
中央の大きな櫓が天守。右の櫓が西櫓で手前が捨曲輪です。
南東から北西方向をみた絵図
中央の大きな櫓が天守。 天守周辺の一段高いところが本丸で、右手前が二の丸になります。
真田家は、関ヶ原の戦いの際、どちらが勝っても家が存続できるよう、
上田の昌幸は西軍、沼田の信幸は東軍に分かれて参戦しました。
東軍勝利によって、戦後、信幸は父の上田領も継承し、上田藩を立藩します。
1622年に松代藩に転封となりますが、沼田領は引き続き真田領として継続しました。
1658年、本家の松代藩を継いでいた信之次男の信政が死去し、
その子、幸道が2歳で継承しますが、これに沼田領を継いでいた信之長男の子、信利が反発して、沼田藩として独立します。
しかし、1680年、信利は幕府から江戸「両国橋」の用材の差出を請け負ったものの、
納期に間に合わなかったことを咎められ、翌年に改易されてしまいました。
沼田藩領は天領となり、城は破却され、堀も埋められます。
1703年、譜代の本多正永が入封し、再興を図りますが、3代で駿河田中藩に転封。
再びの代官支配を経て、1732年から黒田氏2代の後、
1742年に、美濃土岐氏の傍系、明智土岐氏が入封すると、
12代目頼知(よりおき)のときに明治維新を迎えるまで続きました。
真田氏以降は三の丸に藩邸が建てられましたが、
天守や櫓が再興されることはなかったそうです。
訪問記(2018年11月3日)
沼田城は現在、沼田公園になっています。 続100名城スタンプを公園の駐車場にある「沼田市観光案内所」で押印してから散策開始。
二の丸
現在は野球場になっています。臨時の駐車場としても使われており、ここに車を停めました。
沼田公園案内図
城の原型はほとんどとどめていませんが、左半分(西側)が本丸で、 右半分(東側)が二の丸になります。左上部(北西)の一角が、捨曲輪跡でここは少し形がわかります。
本丸堀跡
二の丸と本丸の間に設けられた堀の跡。側面に少しだけみえる石垣は真田氏の頃のものと考えられているそうです。
本丸
南東部分。
北西から南東方向。
真田信之・小松姫像
長年争いが続いた徳川家と真田家は、豊臣秀吉の仲介で和解します。 両家の関係を緊密にする目的で、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘の小松姫が、 家康(あるいは秀忠)の養女となったうえで、真田信之の妻となりました。
天守台跡
鐘楼(復元)
元々の鐘は真田氏2代目城主真田信吉が三の丸の楼に掛けて時報に用いていたそうです。
御殿桜
西櫓台の石垣に大きく枝を張る、樹齢400年以上のヒガンザクラ。
西櫓台の石垣、石段
数少ない遺構のひとつ。真田氏の頃のものと考えられているそうです。
本丸からの眺望
南西方向、沼田市の市街地が見えました。
捨曲輪
平八石
信幸の父・昌幸が、沼田顕泰の子・沼田平八郎景義を誅殺後、その首級を置いたといわれる石。
捨曲輪から眺める段丘下の風景
沼田は河岸段丘の街。沼田城は薄根川の段丘崖の先端に築かれた城です。 北東は、名胡桃城の方向。沼田城の城代を務めていた後北条氏の家臣が名胡桃城を攻撃したことが、豊臣秀吉の小田原攻めのきっかけになりました。
旧生方家住宅
17世紀末頃、沼田藩御用達の薬種商、生方家が建てた町家。
幾回かの修理を経て、現代に至っているそうです。
昭和45年に重要文化財に指定され、昭和47-48年に沼田公園内に移築。昭和49年から一般公開されています。
屋号は「ふぢや」ですが、上之町の角地にあったことから「かどふぢ」とよばれていました。
旧土岐家住宅洋館
大正13年、現在の東京都渋谷区に、18世紀半ばから明治維新を迎えるまで藩主を務めていた土岐家が建てた住宅の一部。
沼田市が、土岐家現当主の實光氏から寄贈を受け、平成2年に沼田公園に移築されました。
現在は上之町に再移築の工事中。外から見るだけです。
見学時間
本当に続100名城かと戸惑うくらい城の遺構は残されてなかったのですが、
その割に気がつけば、1時間20分も公園内を歩き回っていました。(13:20-14:45)
この後、利根川対岸の名胡桃城に移動しました。