2018年11月 3日

続100名城:群馬県沼田市の沼田城に行く

今日は群馬県の続100名城のお城、沼田城と名胡桃城に出かけてきました。 関東だからと油断して少し遅めの時間に家を出たら、大渋滞に遭遇。 1城目の沼田城まで、4時間もかかってしまいました。 紅葉シーズンを甘く見ていたようです。

沼田城は現在、沼田公園になっています。 100名城スタンプは、公園の駐車場にある「沼田市観光案内所」でGet。 続100名城に群馬県は、先の2城に岩櫃城を加えた3城が選出されており、 3城まわると3城目のお城で特製のクリアファイルのプレゼントがあるそうです。

沼田城は、本当に続100名城かと戸惑うくらい、城の遺構は残されていませんでした。。

沼田城【上野国】の歴史

戦国期

沼田城は、1532年頃、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏の12代目、顕泰(あきやす)によって築城されました。北陸から関東へ至る要衝の地にあるこの城は、 以後、越後の上杉氏、小田原の後北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により、 激しい争奪が繰り広げられることになりました。

1580年、武田勝頼の命を受けて、信濃の豪族、真田氏が沼田城を攻略。 1582年、武田氏が織田信長に滅ぼされると、城は信長家臣の滝川一益の支配下に置かれますが、 同年の本能寺の変を機に真田氏が奪回します。

真田氏は徳川氏、後北条氏からたびたび攻撃されますが、都度これを退け、 豊臣氏から認知されるようになりました。 1587年、上杉氏を介して正式に豊臣氏の家臣となり、徳川氏とも和解しました。

1589年、豊臣秀吉の裁定で、沼田城は、後北条氏に帰属するところとなり、真田氏は城を明け渡しました。 しかし、1590年、城代となった後北条氏家臣、猪俣邦憲が利根川を挟んた対岸にある真田方の名胡桃城を不法に攻撃したことを発端に、秀吉による小田原攻めがはじまり、後北条氏は滅亡します。

目立った遺構がないところ、続100名城に選定されたのは、 こうした歴史的背景があるからと思われます。。

北条氏滅亡後

沼田城は、秀吉により真田氏に与えられ、城主となった真田信幸は、近世的な城郭の整備をすすめました。1597年には天守も完成します。 そのころを表した模型と絵図が、「沼田市観光案内所」、「沼田公園」にそれぞれあり、 これが、城跡を歩くうえで、イメージを膨らませるのによい参考になりました。

北から南をみた模型

中央の大きな櫓が天守。右の櫓が西櫓で手前が捨曲輪です。

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南東から北西をみた絵図

中央の大きな櫓が天守。天守周辺の一段高いところが本丸で、右手前が二の丸になります。

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信幸は、関ヶ原の戦いも乗り切り、沼田城を守りましたが、 その後、長男・信吉とその長男熊之助が若くして亡くなったことから後継者争いが起こり、 信吉の次男・信利が沼田城主であった1658年に、 本家の松代藩から独立し、沼田藩を立藩しました。

沼田藩の信利は、1680年、幕府より江戸「両国橋」の用材の差出を請け負ったものの、 納期に間に合わず、これを咎められ、1681年に改易されました。 藩領は、天領となり、城は破却され、堀も埋められました。

真田改易後

1703年、譜代の本多正永が入封し、再興を図りますが、3代で駿河田中藩に転封。 再びの代官支配を経て、1732年より、黒田氏2代の後、1742年、美濃土岐氏の傍系、明智土岐氏が入封。12代目頼知(よりおき)のときに明治維新を迎え、城は廃城になりました。

真田氏以降は、三の丸に藩邸が建てられましたが、 天守や櫓が再興されることはありませんでした。

訪問記

二の丸

現在は野球場になっています。臨時の駐車場としても使われていて、 ここに車を停めました。

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沼田公園案内図

城の原型はほとんどとどめていませんが、左半分(西側)が本丸で、右半分(東側)が二の丸になります。左上部(北西)の一角が、捨曲輪跡でここは少し形がわかります。

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本丸堀跡

二の丸と本丸の間に設けられた堀の跡。側面に少しだけみえる石垣は真田氏の頃のものと考えられているそうです。

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本丸

南東部分。

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北西から南東方向。

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真田信之・小松姫像

1585年以降、家康は真田をたびたび攻撃しましたが、真田は都度撃退。 両家は秀吉の仲介で和解し、関係を緊密にする目的で、 徳川四天王の一人、本多忠勝の娘の小松姫が、 家康(あるいは秀忠)の養女となったうえで、真田家に嫁きました。

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天守台跡

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鐘楼(復元)

元々の鐘は真田氏2代目城主真田信吉が三の丸の楼に掛けて時報に用いていたそうです。

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御殿桜

西櫓台の石垣に大きく枝を張る、樹齢400年以上のヒガンザクラ。

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西櫓台の石垣、石段

数少ない遺構のひとつ。真田氏の頃のものと考えられているそうです。

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本丸からの眺望

南西方向、沼田市の市街地が見えました。

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捨曲輪

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平八石

信幸の父・昌幸が、沼田顕泰の子・沼田平八郎景義を誅殺後、その首級を置いたといわれる石。

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捨曲輪から眺める段丘下の風景

沼田は河岸段丘の街。沼田城は薄根川の段丘崖の先端に築かれた城です。 北東は、名胡桃城の方向。沼田城の城代を務めていた後北条氏の家臣が名胡桃城を攻撃したことが、豊臣秀吉の小田原攻めのきっかけになりました。

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旧生方家住宅

17世紀末頃に建築された町家。幾回かの修理を重ね現代に至りました。 昭和45年に重要文化財に指定され、昭和47-48年に沼田公園内に移築。 昭和49年から一般公開されています。 生方家は沼田藩御用達の薬種商。 屋号は「ふぢや」ですが、上之町の角地にあったことから「かどふぢ」とよばれていました。

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旧土岐家住宅洋館

この建物は、明治維新当時、藩主を務めていた土岐家が大正13年に現在の東京都渋谷区に建築した住宅で、現当主の實光氏より、沼田市が現存する洋館部分を寄贈を受け、平成2年に沼田公園へ移築したもの。現在は、上之町に再移築の工事中で外から見るだけです。

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見学時間

遺構が無かった割に、気がつけば1時間20分も公園内を歩き回っていました。(13:20-14:45) 続いて、利根川の対岸にある名胡桃城に向かいました。








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