名胡桃城(なぐるみじょう)は、真田昌幸が守り、 秀吉の天下統一に繋がる小田原攻めのきっかけとなった城です。 利根川を挟んだ向こう岸の沼田城とセットでまわりたいお城。
名胡桃城【上野国利根郡】の歴史
明応年間(1492-1501)に、この地方の有力者である沼田氏の一族、 名胡桃氏が名胡桃館を建てたのがはじまりといわれています。
上杉謙信の侵攻
上野国南部の平井城にいた関東管領上杉憲政が北条氏康に攻められて、1552年、平井城は落城。 上杉憲政は越後に逃れ、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めると景虎はその要請に応じ、1560年、上野国に侵攻します。以後、名胡桃館周辺は、上杉氏の支配下に置かれました。
真田氏と後北条氏の攻防
1578年に謙信が急逝し支配が手薄になると、そこに北条氏政、武田勝頼が侵攻を開始します。
勝頼の命を受けた真田昌幸は、信濃から吾妻・利根に侵攻し、点在する山城・砦を手中にしながら名胡桃館を攻略。ここを後北条氏が制圧した利根川対岸の沼田城攻略の前線基地とし、名胡桃城を築きました。
1580年、昌幸は調略によって戦うことなく沼田城を手に入れます。
1582年は、真田氏の主君である武田氏が滅亡、武田氏を滅ぼした織田信長も本能寺で倒れるという大変事が起こりました。その後、武田の旧領を巡る争奪戦が繰り広げられ、徳川家康と北条氏政の間で、甲斐の都留郡と信濃の佐久郡は徳川、上野の利根・吾妻2郡は後北条が支配するという約定が結ばれます。
昌幸はこの約定を拒み、結果、徳川、後北条両氏から何度も侵攻をうけることになりますが、
そのたびに撃退。するとその奮戦が豊臣秀吉の目にとまり、1587年、真田氏は正式に秀吉の家臣となりました。
豊臣秀吉の裁定
1589年、天下統一を目前にしていた秀吉は、抵抗を続ける後北条氏が従属の条件としていた沼田領の割譲について、「おおよそ利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を後北条氏に、名胡桃城を含む西部一帯を真田氏に」という裁定を下します。
この結果を受けて、昌幸は沼田城を明け渡し、沼田城には鉢形城主・北条氏邦(氏康五男)の重臣、猪俣邦憲が城代として入りました。
名胡桃城事件から小田原攻め、秀吉の天下統一
しかしその同年、沼田城の猪俣邦憲が秀吉の裁定を破って名胡桃城を攻撃。
名胡桃城の城代・真田家臣の鈴木主水が割腹するという事件が起こります。
秀吉はこれに激怒。これをきっかけとして、1590年、秀吉の小田原攻めが始まり、
20万を超える兵を集めた秀吉軍が4か月で後北条氏を下しました。
このとき、奥州の伊達政宗や最上義光も秀吉に臣従し、秀吉から領土を安堵されます。
これをもち、秀吉による天下統一が完成しました。
家康の関東移封と沼田領
天下統一を果たした秀吉は、家康の領地替えを行い、家康は関東に移ります。
しかし、真田氏の利根・吾妻の沼田領は、軍事上重要な地域でもあるため、真田氏に安堵されました。昌幸の長男・真田信幸が沼田城に入り、名胡桃城はこのとき廃城になりました。
なお徳川領の上野には徳川譜代の重臣が配され、前橋に平岩親吉、箕輪(高崎)に井伊直政、舘林に榊原康政が入封しています。
訪問記(2018年11月3日)
沼田城から車で移動。約20分で着きました。
案内所
はじめに続100名城スタンプを押すため、駐車場の手前にある案内所(9:00-16:00)へ。
すると案内所の女性より、オリジナルのクリアファイルと真田六文銭のシールのプレゼントを頂きました。
さらに群馬県の続100名城(沼田城、名胡桃城、岩櫃城)のスタンプをすべて集めると、
3城目の場所で特製クリアファイルのプレゼントがあるのだそうです。
今までにないサービスでおもしろいです。岩櫃城も頑張ろう。
案内所は、城の歴史をまとめたビデオがとてもわかりやすかったです。
名胡桃城は、ささ郭、本郭、二の郭、三の郭等の主要部が直線に並んだ、いわゆる連郭式の山城です。各郭は堀切で分断され、周囲は急な崖や土塁、柵、櫓で守られていました。 武田氏がよく用いた丸馬出も確認され、三の郭は後で増築したことがわかりました。
般若郭
現在、駐車場になっているところ。この郭だけ連郭式と別になっています。 城の中でも一番大きな郭で、名胡桃館の頃からあったともいわれているそうです。
般若郭側から、二の郭との間の堀、二の郭と三の郭の間の堀を見たところ。
馬出
三の郭
二の郭南虎口
二の郭
二の郭北虎口
本郭への木橋
本郭
ささ郭への階段
当時は土橋だったようです。
ささ郭
ささ郭先端から袖郭とその先の眺望
こちらが沼田城の方向。直接は見えないようです。
小さな山城ですが、説明板とともにわかりやすく整備されており、 とてもよい散策ができました。 見学時間は約一時間(15:05-16:10)でした。