2019年1月 5日

続100名城:茨城県土浦市の土浦城に行く

2019年最初の城攻めは、茨城県の土浦城です。 続100名城ももう関東はだいたい回ってしまっていて、 土浦城はふらっと出かけたいときのために残していましたが、 年始めのスタートに丁度良いのではと思い、行ってみることにしました。

土浦市立博物館

我が家のある東京からは車で約1時間で到着。 土浦市立博物館の駐車場に車を停め、まずはそのまま博物館を見学することにしました。入館料105円。

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受付のお兄さんによると、この入場券で東櫓も入れるがいまの時間は昼休みなのでそちらは13時からになるとのこと。 時計を見たら丁度12時。ゆっくり博物館を見ることにしました。

博物館は広くはありませんが、展示は新しく、私が興味を持っている町の歴史、城の歴史などわかりやすくまとめられており、好印象でした。

下の写真は小さいですが、こういう現在の地図に城の遺構を重ねた図とか好きです。博物館は元の二の丸があった場所に建てられています。

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城の模型。中央の本丸のうち、左の西櫓、右の東櫓が復元、手前の櫓門が現存しています。

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土浦城の歴史

土浦城のある常陸国の南部は、鎌倉時代以降「小田氏」が勢力を拡大しました。 小田氏は宇都宮氏の傍流で、鎌倉時代は常陸守護に代々任じられ、室町時代は関東八屋形に列せられる名家でしたが、 戦国時代に入ると、佐竹氏、上杉氏、後北条氏などに侵攻され、領土の侵食・奪還を繰り返します。 1583年、遂に佐竹氏に臣従。1590年、豊臣秀吉の小田原攻め後に所領を没収され、ここで大名としての小田氏は消滅しました。

土浦城は室町中期に小田氏家臣の「菅谷(すげのや)氏」が築いたといわれています。 戦国末期「菅谷範政」は、主君の小田氏が佐竹氏に降伏すると佐竹家臣となり、 1590年の秀吉の小田原攻め後は、小田氏の改易に伴い土浦城を失いますが、このとき小田氏への忠義が評価されます。 1596年、徳川家の旗本に取り立てられ、上総国の平川邑に1000石を与えられました。 1603年には、筑波郡の手子丸城に5000石で移封。その後、子孫は幕末まで存続しました。

土浦は、小田原平定後、下総結城の結城秀康に与えられ、土浦城はその支城となりました。 関ヶ原の戦い後、秀康が越前北庄に移封になると、譜代の松平信一が3万5000石で土浦に入り、 土浦藩が立藩、土浦城が藩庁になります。
1617年、2代信吉が高崎藩に移封すると、1618年から西尾氏が入城。 2代忠照のときに、日光東照宮参拝帰路の2代将軍徳川秀忠を迎えるため、東櫓、西櫓が築造されました。 その後城主は、朽木氏2代、土屋氏2代、松平信興と変わり、1687年に土屋政直が復帰すると、 以後明治維新に至るまで土屋氏9万5000石の居城となりました。

訪問記

昔は水堀が何重にも囲うお城だったようですが、現在堀は、本丸と二の丸の一部が残るのみ。 本丸は、想像以上にコンパクトでしたが、本丸とそれを囲う水堀からは往時の面影が感じられました。 天気が良かったこともアドバンテージになっていますが、のどかで綺麗に整備された良いお城でした。

西櫓

昭和24年に台風の被害を受け、昭和25年に復元を前提に解体されるも長年そのままになっていましたが、 平成3年に復元されました。

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本丸

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櫓門

本丸の表門。現存。

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二の丸

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前川口門

武家屋敷であった多計郭と町屋との間を仕切る門。現在は二の丸の入口にあたる二之門の場所に移築されています。

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霞門

本丸の裏門。現存。

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東櫓

明治17年の失火で本丸御殿とともに焼失。平成10年に復元。続100名城スタンプはここにあります。

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霞門の前から。

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本丸土塁の上より。

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櫓2階から東方向の眺め。かつて櫓から霞ヶ浦が見えたといいますが、まったくその面影はありません。

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