2019年最初の城攻めは、茨城県の土浦城です。東京の自宅からは車で約1時間。 平城でふらっと出かけるにはちょうど良い場所です。
土浦市立博物館
車を「土浦市立博物館」の駐車場に停め、まずはそのまま博物館に入ります。入館料105円。
受付のお兄さんから「博物館の入場券で東櫓にも入れるが、
いまは昼休みなのでそちらは13時からになる」と言われ、時計を見たら丁度12時。
館内をゆっくり見学しました。
博物館は広さはありませんが、
展示は新しく、町の歴史、城の歴史などわかりやすくまとめられており、好印象でした。
下の写真は小さいですが、こうした現在の地図に城の遺構を重ねた図が好きです。
博物館の場所は赤丸で示されていて、二の丸があった部分に建てられていることがわかります。
土浦城の模型
内堀の中が本丸。左の西櫓と右の東櫓が復元されており、手前の櫓門が現存しています。
土浦城の歴史
土浦城のある常陸国の南部は、鎌倉時代以降「小田氏」が勢力を拡大しました。
小田氏は宇都宮氏の傍流で、鎌倉時代は常陸守護に代々任じられ、室町時代は"関東八屋形"に列せられる名家でしたが、
戦国時代に入ると、佐竹氏、上杉氏、後北条氏などに侵攻され、領土の侵食・奪還を繰り返します。
1583年、ついに佐竹氏に臣従。1590年、豊臣秀吉の小田原攻め後に所領を没収され、
ここで大名としての小田氏は消滅しました。
土浦城は、室町中期に小田家家臣の「菅谷(すげのや)氏」が築いたといわれています。戦国末期、菅谷範政は、主君の小田氏が佐竹氏に降伏すると佐竹家臣となり、1590年、小田氏の改易に伴い居城の土浦城を失いますが、
このときに浅野長政に"これまでの小田氏への忠義"が評価されます。
1596年、徳川家に推挙され、上総国の平川邑(袖ケ浦市南部)に1000石を与えられて旗本に取り立てられた後、1603年には、筑波郡の「手子丸城」(つくば市手子生)に5000石で移封。その後、子孫は幕末まで存続しました。
土浦城のほうは、1591年、秀吉の養子になっていた家康の次男の秀康が、秀吉に実子・鶴松が誕生したのを機にあらためて、北関東の大名、結城氏の婿養子となり、下総結城城に11万石で入城すると、その支城となりました。
1600年、関ヶ原の戦い後に秀康が越前北庄に移封されると、藤井松平家の松平信一(のぶかず)が3万5000石で土浦に入り、土浦藩を立藩、土浦城が藩庁になりました。
1617年、2代信吉が高崎藩に移封すると、1618年から西尾氏が入城。
2代忠照のときに、日光東照宮参拝帰路の2代将軍徳川秀忠を迎えるため、
東櫓、西櫓が築造されたそうです。
その後城主は、朽木氏2代、土屋氏2代、松平信興(大河内松平家)と変わり、
1687年に土屋政直が復帰すると、以後明治維新に至るまで土屋氏9万5000石の居城となりました。
土屋政直は、老中として5代から8代の将軍に仕えた人物。
土屋氏は桓武平氏の流れをくみ、相模国大住郡土屋(平塚市)から起こり、
武田家臣を経て徳川家臣になりました。
訪問記(2019/01/05)
先の地図のとおり、昔は水堀が何重にも囲うお城だったようですが、現在堀は本丸と二の丸の一部が残るのみ。 本丸は思った以上にコンパクトでしたが、本丸とそれを囲う水堀からは往時の面影が感じられました。 天気が良かったこともアドバンテージになっていますが、のどかで綺麗に整備された良いお城でした。
西櫓
昭和24年に台風の被害を受け、昭和25年に復元を前提に解体されるも長年そのままになっていましたが、 平成3年に復元されました。
本丸の内側から。
本丸
櫓門
本丸の表門。現存。
外側から。
二の丸
前川口門
武家屋敷であった多計郭と町屋との間を仕切る門。 現在は二の丸の入口にあたる二之門の場所に移築されています。
霞門
本丸の裏門。現存。
東櫓
明治17年の失火で本丸御殿とともに焼失。平成10年に復元。 続100名城スタンプはここにあります。
霞門の前から東櫓
本丸土塁上から東櫓
東櫓2階から東方向の眺望
昔は櫓から霞ヶ浦が見えたといいますが、その面影はありません。