2019年2月17日

続100名城:山口県山口市の大内氏館・高嶺城に行く

角島で日の出を見た後、山口市に移動しました。 大内氏館と高嶺城(こうのみねじょう)は、それぞれ別の場所にありますが、続100名城のスタンプは、2つで1つの扱いになっています。

高嶺城の歴史

高嶺城は、1556年、大内義長が居館である大内氏館の詰城として、 鴻ノ峰(標高338m)山頂に築城をはじめた城です。

大内氏

大内氏は、平安時代に周防国府の役人を代々務めた家柄。 南北朝時代から戦国時代においては、山口を拠点とし、日明貿易、日朝貿易によって多くの富を築き、 中国地方から九州北部にかけて、西国随一の勢力を誇りました。

しかし、1542-1543年の第一次月山富田城の戦いで、出雲国の尼子氏に敗れたのをきっかけに傾きはじめます。 1551年、家臣の陶隆房(すえ・たかふさ)の謀反により、31代当主の大内義隆が自害に追い込まれました。

陶隆房

陶隆房は、豊後国の戦国大名、大友宗麟の弟(晴英)を新当主(大内義長)として擁立します。 晴英の母は、大内義隆の妹にあたる人でした。 以後、大内家は、陶隆房の傀儡となりますが、義隆の姉を正室とする石見国津和野の吉見正頼がこれに反発し、 1554年、「三本松城の戦い」が勃発しました。 この戦いは大内氏側の優勢で和睦しますが、このとき、毛利元就がこの戦い乗じて、安芸を掌握。 陶隆房は、1555年に毛利元就との間で起こった「厳島の戦い」で敗死してしまいました。

残された大内義長が、毛利元就の侵攻に備え、築城をはじめたのが高嶺城です。

しかし、1557年、毛利氏は城の完成より早く山口に侵攻してきました。 義長は重臣とともに山口を脱出するも、毛利軍に囲まれ、長門長福院(現在の功山寺)で自刃。 ここで戦国大名としての大内氏は完全に滅亡しました。

毛利氏

高嶺城の築城は、その後毛利氏によって再開されます。 完成後は、吉川氏の一門の市川経好が城代を務め、毛利氏による山口支配の拠点となりました。

大内輝弘の乱

1569年、大内義隆の父、義興の時代に、大内氏の一族でありながら謀反を起こし大友氏の下へ亡命した大内高弘の子どもの輝弘が、 大友宗麟の支援を得て、周防国に侵攻し、高嶺城を攻撃しました。 このとき、城代の市川経好は九州に出陣中で不在だったため、その妻が城を守りました。 輝弘が攻めあぐねている間に、毛利軍が九州より戻り、輝弘は敗北、自刃しました。

廃城

1600年、関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元は、安芸国ほか8か国で112万石の大大名でしたが、 敗戦により、隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、防長2か国29万8千石余に減封されました。

広島城に代わる居城として、萩・山口・三田尻(防府)の3ヵ所を城地の候補として挙げましたが、 幕府の裁可により、萩に移ることとなりました。 この結果、高嶺城は、1615年の元和一国一城令によって、廃城となりました。

高嶺城訪問記

主郭までの道は、山口大神宮ルートと木戸神社ルートがありますが、 おすすめは木戸神社ルートとのこと。

木戸神社ルートは、山口放送山口鴻ノ峰FM中継放送局のところまで車で行くことが可能で、そこから歩けば主郭まで約30分。 ただ、放送局までの道は、舗装されてはいるものの、かなり狭く、対向車が来れば数少ない退避箇所まで戻らなければなりません。

そこまで行かなくても、途中の糸米川砂防園の駐車場に停めて、その先を歩くことにすれば、 車の道の心配はなくなりますが、そうすると本郭まで約60分の山歩きになります。

安全に行くなら、砂防園から歩いて登るのが良いのでしょうが、 今日はまだ他にもいろいろ回らなければならず、歩くのは時間的にも体力的にもきついので、 対向車が来ないことを祈りながら、放送局まで細い道を車で登ることにしました。

山口放送山口鴻ノ峰FM中継放送局

日頃の行いが良いせいか、対向車もなく無事に辿り着きました。

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車を停めた中継所の裏にも郭があり、石碑と案内板が建っていました。 この郭を下りていくと山口大神宮のほうにいくようです。

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東屋のある郭

中継所から主郭まで500m。5分ほどで東屋のある郭に着きました。

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前に見える山の手前が山口駅あたりだと思われます。

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「広大な郭」

「広大な郭」と書かれた説明板がある郭。

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主郭部

主郭部が見えてきました。はじめに右にまわって石垣を見ます。 現地の説明板によると石垣はすべて毛利氏時代のもので、大内氏時代のものはないそうです。

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井戸

石垣の手前に井戸があり、中には水が見えました。ポンプは後でつけたものでしょうね。。

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主郭北側の石垣

この部分の石垣は、毛利氏が豊臣大名化した後のものと考えられているそうです。

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元来、石垣は角の部分は頑丈なのですが、ここでは角の部分がより大きく崩れていることから、 廃城令にあたって、人為的に壊したものと推測されるようです。

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主郭南側の石垣

こちらは、毛利氏が豊臣大名化する以前の石垣。 ところどろに鏡石とよばれる巨石を使いながら、全体的に石材が小さいのが特徴だそうです。

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言われてみると北側とはちょっと違う雰囲気なのがわかります。

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主郭

地面の下の石は建物の礎石だそうです。

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主郭からの眺望

東の方向。下の写真中央の茶色い空間の周辺が「大内氏館」の場所です。

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テレビの中継所まで、下りは10分で戻りました。ここからは車ですが、今度は途中で軽自動車が上ってきました。 「まずい」と思っていると、軽自動車が少しバックしてくれて、すぐそこに待避場所がありました。 よかった。角島で日の出を見ることができたときから、今日は少しツキがある気がしていました。

山口と言えば瑠璃光寺の五重塔

私は全く知らなかったのですが、山口と言ったら五重塔なのだそうです。
室町時代、25代当主大内義弘のとき、大内氏は6か国の守護となり、最初の最盛期を迎えます。 義弘は、ここに香積寺を建立しますが、その後足利義満と対立し、1399年の応永の乱で戦死します。 五重塔は、義弘を弔うため、26代の大内盛見(もりはる)が造営を開始し、1442年(嘉吉2年)に完成したものです。 清潔感が漂っていました。

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瑠璃光寺

瑠璃光寺は、大内家28代教弘、29代政弘に仕えた陶弘房の死後に、弘房を弔うため、その夫人によって山口市仁保に建立されました。江戸幕府成立後、毛利輝元が1604年に香積寺を萩に移し、1690年、その跡地に瑠璃光寺が移されたことによって、瑠璃光寺と五重塔が一緒になったそうです。なんかすごいですね。

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香山墓所

瑠璃光寺の境内には、明治維新当時の長州藩13代毛利敬親以降の藩主のお墓もあります。 毛利氏の居城は江戸時代以降萩城でしたが、幕末になると南北に海を抱える領内の統制がとりやすいと考え、 幕府に無許可で山口に本拠を移しました。

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毛利敬親の墓

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毛利敬親夫人「都美姫」の墓

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荘厳な空気が流れていました。

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大内氏館

京都の将軍邸を模したともいわれる方形居館。24代大内弘世が建築したと伝えられています。 現在は龍福寺になっていますが、このお寺は大内氏滅亡後、1557年に毛利隆元が大内義隆の菩提寺として建立したものです。

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境内から高嶺城がはっきりと見えます。

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発掘調査で復元された池泉庭園

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空堀跡と復元土塁

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復元された西門

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築山館

大内氏館の北隣に同じような館がありました。28代大内教弘が15世紀中頃に築いたといわれる築山館跡です。 教弘以後、歴代当主の居館はこちらだったそうです。

現在は八坂神社の境内になっています。八坂神社は24代大内弘世が京都から勧請しました。 現在ある社殿は、30代大内義興が鴻ノ峰山麓に建立したもので、江戸時代末期に毛利氏によって現在の地に移築されたそうです。

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館の遺構としては、北西部の土塁がわずかに残っています。それだけでも大内氏館の土塁よりはリアルでいい感じでした。

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「大路ロビー」で続100名城スタンプをGet

ここは観光案内所でしょうか。おばあさんが対応してくれました。建物の前の道が「萩往還」という、 江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」だと教えてくれました。

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山口市は今日ここに来るまで、正直ほとんど何の印象もない場所でしたが、歴史が濃く奥深いところでした。 現在の時刻は13:00少し前。山口市全体で滞在時間は3時間弱でした。もう結構くたくたなのですが、これから津和野に移動します。


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