続日本100名城:山口県山口市の大内氏館・高嶺城~香山墓所に行く

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大内氏館と高嶺城(こうのみねじょう)は、戦国大名、大内氏の居館とその詰城。 場所は2キロほど離れていますが、続100名城のスタンプは、2つで1つの扱いになっています。

大内氏と大内氏館、高嶺城の歴史

大内氏は、渡来人の末裔を自称する一族で、山口を拠点として日明貿易、日朝貿易により多くの富を築きました。 大内氏館は、14世紀末から15世紀初めに現在の場所に築かれた大内氏の居館(守護所)です。 京都の将軍邸を模したともいわれる方形の居館は、勢力拡大とともに増築を繰り返し、 最盛期には1辺最大200m以上となったようです。

大内氏は、1528年、大内義隆が家督を継いだころには石見・安芸・周防・長門・豊前・筑前6か国の守護となり、 中国地方から九州北部にかけて西国随一の勢力を誇りました。 しかし、長きにわたった栄華は、あっけなく終焉のときを迎えます。

きっかけは出雲の尼子氏攻略を目指した第一次月山富田城の戦い(1542-1543)での大敗。 義隆は、約3倍もの兵力を持ちながらこの戦で養嗣子の晴持まで亡くし、政治への興味を失います。
家臣の間では、武断派と文治派の対立が表面化し、遂には1551年、 武断派の陶晴賢(すえはるたか)が「大寧寺の変」を起こし、義隆は自害に追い込まれました。

陶晴賢は、義隆の甥の大内義長を新当主として擁立。しかし、周辺の領主たちは次々に離反。 混乱の中、安芸を手中に収めた毛利元就との間で厳島の戦い(1555)が勃発すると、 晴賢は、兵力で圧倒的有利な状況であったにもかかわらず、元就の奇襲に遭って敗死してしまいました。

残された大内義長は、元就の侵攻に備え、 1556年、大内氏館の西に2km離れた鴻ノ峰(標高338m)山頂に高嶺城の築城をはじめます。

しかし、翌1557年、城が未完成のうちに元就の侵攻を受け、 義長は高嶺城を捨てて逃亡、長門の長福院(現在の功山寺)で自刃して大内氏は滅亡。
毛利氏は、周防・長門を手に入れ、尼子氏と並ぶ西国の大大名に躍進しました。

高嶺城は、このとき廃城とならずに築城が再開され、 完成後は吉川氏の一門の市川経好が城代を務め、 毛利氏による山口支配の拠点となりました。

毛利氏は、その後、石見銀山を尼子氏から奪うと第ニ次月山富田城の戦い(1565)で尼子氏を破り、 中国地方8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)+1ヶ国(伊予)を手中に収めました。

元就の孫、輝元は豊臣政権下で五大老の一人となりますが、 関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、周防・長門の2か国29万8千石に大減封されます。
幕命で居城を萩に移され、後に高嶺城は廃城となりました。

大内氏館・高嶺城訪問記(2019/02/17)

早朝、角島で日の出を見てから、山口市に移動してきました。 事前に調べた情報で、なかなか行くのが困難であるとわかった高嶺城のほうを先に行くことにしました。

高嶺城

主郭までの道は、山口大神宮ルートと木戸神社ルートがありますが、 おすすめは木戸神社ルートだそうです。

木戸神社ルートは「山口放送山口鴻ノ峰FM中継放送局」のところまで車で行くことが可能で、 そこから歩けば主郭まで約30分でたどり着けるとのこと。 ただ、放送局までの道は舗装されてはいるものの、かなり狭く、 対向車が来れば数少ない退避箇所まで戻らなければならないそうです。

その手前にある「糸米川砂防園」の駐車場に停めてそこから歩けば、 車の道の心配はなくなりますが、本郭まで約60分の山歩き。

安全に行くなら、「砂防園」から歩いて登るのが良いのでしょうが、 歩くのはこの先のスケジュールを考えると時間的にも体力的にもきついので、 今回は、対向車が来ないことを祈りながら「放送局」まで車で細い道を登ることにしました。

山口放送山口鴻ノ峰FM中継放送局

日頃の行いが良いせいか対向車もなく無事に辿り着けました。

高嶺城

車を停めた中継所の裏にも郭があり、石碑と案内板が建っていました。

高嶺城

郭にあった「高嶺城跡地形図」。 右のほうに現在地があり、一番左に頂部郭跡と書かれています。

高嶺城

ではここから山登りをはじめます。主郭まで500m。 ちなみに、左に見えているのが山口放送山口鴻ノ峰FM中継放送局で、 車を停めた横にある施設は、NHK中継所のようです。

高嶺城

東屋のある郭

登りはじめて5分ほどで東屋のある郭に着きました。

高嶺城

そこからの眺望。山口駅の方向を見ているようです。

高嶺城

広大な郭

登りはじめから主郭までの中間地点にある「広大な郭」。 説明板によれば、居住することを目的に作られた郭ではないかとのこと。

高嶺城

主郭部

主郭部が見えてきました。ここまで約20分。 はじめに右にまわって主郭部を囲う石垣を見学します。

高嶺城

石垣の手前に井戸があり、中を覗くと水も見えました。 井戸の横のポンプは後でつけたものでしょうね。。

高嶺城

主郭北側の石垣

高嶺城の見どころポイント。 この部分の石垣は、毛利氏が豊臣大名化した後のものと考えられているそうです。

高嶺城

元来、石垣は角の部分は頑丈ですが、ここでは角の部分がより大きく崩れていることから、 廃城令にあたって、人為的に壊したものと推測されるようです。

高嶺城

主郭南側の石垣

こちらは、毛利氏が豊臣大名化する以前の石垣。 ところどろに鏡石とよばれる巨石を使いながら、全体的に石材が小さいのが特徴だそうです。

高嶺城

言われてみると北側とはちょっと雰囲気が異なるのがわかりました。

高嶺城

主郭

最後に主郭頂上部へ。地面の下の石は建物の礎石だそうです。

高嶺城

主郭から東方向の眺望。 下の写真中央あたりの茶色く地面が見えている周辺が「大内氏館」です。

高嶺城

以上で高嶺城の見学は終了。帰りは車で山を下りる途中、軽自動車が上ってきました。 「まずい」と思い固まっているうちに、軽自動車が少しバックしてくれて、無事に待避場所ですれ違うことができました。助かりました。
続いて大内氏館に行く前に、瑠璃光寺の五重塔に立ち寄りました。

山口と言えば瑠璃光寺の五重塔

私は全く知らなかったのですが、山口と言ったら五重塔なのだそうです。
大内氏は、14世紀末、大内義弘が周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護となり、最初の最盛期を迎えます。 しかし、領国を増やしたことにより、足利義満から危険視された結果、1399年に応永の乱を起こして戦死しました 五重塔は、義弘を弔うため、弟の大内盛見(もりはる)が造営を開始し、1442年(嘉吉2年)に完成したものです。 清潔感が漂っていました。

瑠璃光寺

瑠璃光寺

瑠璃光寺

瑠璃光寺

瑠璃光寺は、大内政弘に仕えた重臣、陶弘房が応仁の乱で戦死後、その夫人によって山口市仁保に建立されたお寺です。 ここには大内義弘が建てた香積寺がありましたが、1604年に毛利輝元がこれを萩に移し、 1690年、瑠璃光寺が移されたことによって、五重塔と瑠璃光寺が一緒になりました。 大内氏と陶氏は主君と家臣の関係ですが、後に陶晴賢が大内義隆を討つことになります。。

瑠璃光寺

香山墓所

毛利氏の居城は、江戸時代以降萩城でしたが、幕末になると幕府に無許可で山口に本拠を移しました。 そのため、それ以降、13代、14代藩主のお墓はここにあります。

瑠璃光寺

13代藩主、毛利敬親の墓

瑠璃光寺

敬親夫人、都美姫(とみひめ)の墓

瑠璃光寺

墓所には荘厳な空気が流れていました。

瑠璃光寺

では大内氏館へ。

大内氏館

大内氏館は現在、龍福寺というお寺になっています。 大内氏滅亡後の1557年に、元就の長男、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として建立しました。

大内氏館

境内から高嶺城がはっきりと見えます。

大内氏館

発掘調査で復元された池泉庭園

大内氏館

大内氏館の案内図。

大内氏館

空堀跡と復元土塁

大内氏館

復元された西門

大内氏館

築山館

大内氏館の北隣に同じような館がありました。15世紀中頃、大内教弘がに築いたといわれる築山館跡です。 教弘以後、歴代当主の居館はこちらだったそうです。

現在は八坂神社の境内になっています。この八坂神社は、24代大内弘世が京都から勧請しました。 現在ある社殿は、大内義隆の父、義興が鴻ノ峰山麓に建立したもので、 江戸時代末期に毛利氏によって現在の地に移築されたそうです。

大内氏館

大内氏館

館の遺構としては、北西部の土塁がわずかに残っています。それだけでも大内氏館の土塁よりはリアルでいい感じでした。

大内氏館

続100名城のスタンプ設置場所までそのまま歩きました。

「大路ロビー」で続100名城スタンプをGet

「大路ロビー」は行ってみると、小さな観光案内所のようなところでした。 係は地元のおばあさんで、建物の前の道が「萩往還」という、藩主が江戸への参勤交代で使った「御成道(おなりみち)」だと教えてくれました。

大内氏館

山口市にははじめて来ましたが、歴史が濃く奥深いところでした。 現在の時刻は13:00少し前。山口市全体で滞在時間は3時間弱でした。 もう結構くたくたですが、これから津和野に移動します。



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