訪問日:2019年04月13日(土)
9:00過ぎに東京の自宅を出発し、給油してから首都高へ。
うちからだと新東名経由か中央道経由かで迷うところですが、ナビが新東名というのでそれに従いました。
新東名の新静岡IC-森掛川IC間は、最高速度120Km/hの試行がされており、
自分も意識的に速度を引き上げて走行しました。120km/hを維持するのは案外疲れました。。
途中、岡崎SAで休憩。ふらっと出かけるにはやはりちょっと遠いですね。。
最寄りの可児御嵩ICを降りたあと、桜に覆われた古城山(標高約277m)が見えたときは、テンションがあがりました。
続100名城スタンプ設置場所「可児市観光交流館」
城に行く前に、続100名城スタンプを押しに「可児市観光交流館」に立ち寄りました。
可児御嵩ICからは10分くらい。時刻は14:30。自宅からの所要時間は5時間半でした。
ここは平成30年4月、続100名城のスタンプラリーがはじまったときにリニューアルオープンした施設です。
広さはありませんが、美濃金山城をはじめ周辺の山城の案内パンフレットが多数置いてありました。
一人なのでやってませんが「甲冑着付け体験」もできるみたいです。なかなか興味深い施設でした。
自分へのお土産はいつも買わないようにしていますが、 日本城郭協会理事長である小和田哲男さん監修の「戦国武将関係図」というクリアファイルを見つけ、 思わず購入してしまいました。家に帰ってからゆっくり楽しみます。
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美濃金山城(みのかねやまじょう)
蘭丸ふる里の森
美濃金山城のある古城山の麓は「蘭丸ふる里の森」として整備されています。 蘭丸とは、織田信長に小姓として仕えた森蘭丸のこと。美濃金山城は、森家のお城です。
蘭丸ふる里の森 第二駐車場
山頂の城跡に一番近いのは「出丸跡の駐車場」で、
麓の蘭丸ふる里の森には「第一駐車場」と「第二駐車場」がありますが、おすすめは「第二駐車場」。
欠点は停められる台数が少ないところですが、桜を程よく楽しみながら城を見るにはここがベストと思います。
「蘭丸ふる里の森」入口
入口を入っていき、突き当ったところの右は「堀切の径」。先は結構な急坂で、桜も見えなかったので、ここは覗いただけ。
左に曲がって「蘭丸広場」に向かいました。こちらのほうは桜が綺麗です。
伝・蘭丸産湯の井戸(蘭丸広場)
森蘭丸が美濃金山城で生まれたときに使われたと伝えられています。
大手道
広場の下の大手道は石畳と石段が続いていました。麓の第一駐車場までは約10分とのこと。 私はちょっと下りてすぐ引き返しました。 第一駐車場に車を停めた人は、この道を歩いて上がって来るのですが、皆きつそうな表情をしていました。
登城の径
蘭丸広場から城跡へ登る道は、途中3つに分岐します。 どの道を通ったらよいかわからず、なんとなく右の道を上がっていきましたが、 先に進むうちに桜が最もきれいなのは中央の道のような気がしてきました。
物見台からの眺望
登城の径を登り切ったところに物見台が設置されています。千本桜の絶景。すごい。 これはなかなか見られない景色じゃないでしょうか。
パノラマでも撮ってみました。
美濃金山城登城口
さて、ここから先が城跡の領域になります。本丸までは約10分。
美濃金山城の歴史
1537年に美濃の守護代一族の斎藤妙春(斎藤道三の養子)が烏峰城を築いたのがルーツ。
1565年、織田信長が美濃を支配すると家臣の森可成(よしなり)が城主となり、金山城と名前を変えました。
1570年、可成は、姉川の戦いの後に起こった浅井朝倉両軍との戦い「宇佐山城の戦い」で討死。
その直前に長男の可隆も初陣の戦で討死していたため、13歳の次男・森長可(ながよし)が跡を継いで城主となりました。
1582年、長可は甲州征伐において先方部隊として活躍。武田氏滅亡後は、恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)20万石を与えられて海津城に移り、
金山城は三男の乱丸(蘭丸)に与えられましたが、同年に起こった本能寺の変で、乱丸は、弟の坊丸、力丸とともに討死。
このとき、長可は越後に侵攻中で、信濃国は信長死去により混乱状態となったため、海津城を放棄して金山城に戻りました。
長可は、本能寺の変後、秀吉に接近。織田信孝方についた周辺の勢力を破り、東美濃を統一しましたが、
1584年、秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間で起こった小牧長久手の戦いで、流れ弾が眉間に当たって即死。
結果、森家はわずか15年の間に6人の父子が亡くなり、六男の森忠政が跡を継いで金山城主になりました。
忠政は秀吉の死去後、家康に接近。1600年、関ヶ原の前に川中島に137000石で加増転封すると、
川中島にいた田丸直昌は森氏家臣の各務元正(かかみもとまさ)が城代を務めていた岩村城に入城。
金山城には、豊臣家臣で犬山城主の石川貞清所有の後、関ヶ原を経て桜井松平家の松平忠頼が入城しますが、
一年足らずで浜松城に移り、金山城は廃城になりました。
江戸時代、古城山は尾張藩のお留山となり、村人の立ち入りが禁止されていました。
明治時代は皇室の御料林となっていたと伝えられ、戦後は、昭和28年まで国有林だったそうです。
現地の説明板には、このようにして長年にわたり利用ができなかったことが、
遺構を残す結果になったとありました。
三の丸
三の丸門跡
水の手門跡
この先に水の手。年中清水が湧出する常駐生活飲用水の補給場所があったそうですが、危険で立入禁止になっていました。
二の丸西面石垣
ニの丸
奥に長く広い曲輪。礎石の形状から渡り廊下のある建物があったと考えられているそうです。
ニの丸物見櫓跡
現在は木で見通しはよくありませんが、ここに敵状監視の櫓があったそうです。
大手枡形
枡形は攻めてきた敵の進む勢いを鈍らせるために設けられた正方形の平地。 城が機能していた頃は、正面入口に一の門、一の門を入って直角に曲がった右側に二の門がありました。
二の門を入った位置から枡形をみたところ。
南腰曲輪
本丸天守台西南隅石
下の部分しか残っていませんが算木積がわかります。
本丸
天守台の脇の細い石段を上がったところが本丸。建物跡の礎石がたくさん。
城跡碑
北西の眺望。流れる川は木曽川。
西の眺望。木曽川はこちらが下流の方向。
本丸東の端から西方向。
本丸虎口
搦め手側の枡形虎口を本丸から。
枡形虎口を出て本丸方向に振り返ったところ。
東腰曲輪
枡形虎口を出たところです。
集水桝と本丸の石垣。
東腰曲輪の石垣の上に瓦の破片が置いてありました。
搦手門の先は搦手道。ここは下りずに見るだけにしました。
出丸跡
登山口まで元の道を戻り、出丸跡へ。第一線防御のため大手口に主郭から独立して築かれた曲輪。
すばらしい眺望。
出丸南面の石垣。
「登城の径」真ん中を通り、第二駐車場まで戻りました。 滞在時間は1時間45分。可児市観光交流館も含めると、約2時間30分でした。
まとめ:美濃金山城は★★★★☆。
これまで100名城・続100名城あわせて117城まわってきたなかでも、かなり印象に残る良い城でした。
良かったのは遺構が良好に残されていること、規模が見て回るのに適度であること、眺望がよくて桜が美しいこと。
もっと知名度が高くてもいいんじゃないかと思える城でした。
季節も天候もベストなタイミングで本当によかったです。
今年はこれまで花見をする機会がなく、まぁそのまま季節が過ぎでもいいかなぐらいのテンションだったのですが、
この城のおかげで、しっかり堪能できました。
おまけ:名鉄広見線(6000系)を撮る
鉄道写真もちょっとやってみたい趣味のひとつ。帰る途中、踏切待ちの間にやって来た名鉄広見線(6000系)を車中から撮りました。
帰りのナビはなぜか中央道経由を勧めてきましたが、行きと同じ新東名で帰りました。夕方5時に現地を出て、自宅に到着は夜の10時少し前でした。