続日本100名城:岐阜県大垣市の大垣城に行く

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訪問日:2019年4月28日

本日2城目。三重県の津城から高速道路に乗って、大垣ICで下車。 市営丸の内駐車場に車を停め、大垣公園のお城まで、少し歩きました。 途中、名古屋の中心部で渋滞に巻き込まれて所要時間は2時間。着いた時刻は11:45頃。

大垣公園側の立派な入口(西門)からは入らず、 北西の乾隅櫓を見ながら周囲をまわり、水の手門から中に入りました。

乾隅櫓(復興)

左手に見える入口が水の手門です。

水の手門跡

水の手門の前で城の案内図を確認。江戸期と現在の地図が並べてあり、わかりやすくてよかったのですが、 だいぶ様子が変わっているようです。 本丸と二の丸は、江戸期には、水堀に浮かぶ島のようになっていましたが、 今は堀が埋められて、周囲の郭を含めて地続きになっています。 本丸だった部分はなんとなくその形が残っていますが、二の丸はもう原型がどうなっていたかわかりません。

城が機能していた頃、島状の本丸には、二の丸から架かる橋を渡らないと入れなかったようです。 ただし、舟ならばこの水の手門につけることもできたようです。 トップの写真で見えた西門はその当時は無く、後で石垣を壊して作ったものでした。

水の手門を入ってすぐのところから見あげた天守

現在は一部しか残っていませんが、本丸の内部にもう一重、 天守を1つの角にして、囲う石垣があったようです。

振り返ってみた水の手門

辰巳櫓跡

天守の対角線上、本丸内の南東にあった櫓の跡。

鉄門跡

二の丸から入ってくる入口にあった門跡。 二の丸と本丸の間には水堀があり、廊下橋という名の橋が架かっていました。

城郭図

鉄門前にある城郭図を確認。ここまでは、北西の水の手門から本丸に入り、 西埋門のあたりを通って、辰巳櫓を見ながら、南の鉄門まで歩いてきた感じ。

七間多門跡

鉄門から再び本丸に入ったところ。

東埋門

鉄門を入って右手にあるのが東埋門跡。

天守(外観復元)

江戸期に作られた天守は、戦前まで残っていて、国宝にもなっていましたが、 太平洋戦争で米軍の空襲によって焼けてしまいました。 現在の天守は、昭和34年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。

ちなみに、岐阜県・郡上八幡城の現在の天守は、 昭和8年、大垣城の天守がまだ現存していた頃に、 それを模して木造で建てられたものだそうです。

大垣城の歴史

大垣城は、豊臣政権において東国に対する要として重視されてきた城で、 池田恒興、豊臣秀次、豊臣秀長などの重鎮が次々と城主を務め、 1600年には、伊藤盛正が城主になっていました。

石田三成と徳川家康の戦がはじまると、盛正は三成の要請に応じて城を明け渡し、 三成が本拠としてここを使用しました。

家康勝利で戦いが終わると、盛正は改易。 家康の落胤説もある松平康重(松井松平家)が城番を務めた後、 1601年、石川康通が5万石で入城し、大垣藩を立藩。 石川氏3代、久松松平氏(康元系)2代、岡部氏2代、久松松平氏(定勝系)1代の後、 1635年に、戸田氏鉄(うじかね)が、尼崎藩での治水事業、大阪城修造の功により10万石で入城すると、 その後は戸田氏が11代続き、明治維新を迎えました。
ちなみに、戸田氏鉄はウィキペディア情報によれば、家綱誕生の際に「へその緒」を切る役をした人らしいです。

天守からの眺望(西側:関ヶ原方向)

右奥の一番高い山が滋賀県で一番高い伊吹山。 その尾根を左に伝い、正面に見える遠くの平らなスペースが関が原です。

天守からの眺望(北東:岐阜城方向)

正面の白い看板の右に小さく見える山の上に岐阜城があります。 手前の櫓は艮隅櫓。

天守外観(東側より)

左の通路は江戸期には無かったもので、石垣があったところを壊しています。

東門

先の通路から繋がる立派な門ですが、これも江戸期はなく、石垣が続いていたところを壊して作りました。
門の櫓は、大垣城への入口のひとつ、柳口門から移築したものだそうです。

艮隅櫓(復興)

本丸北東の櫓

ここは堀の名残でしょうか。。

かつては三重の水堀に囲まれた大きな城だった大垣城ですが、 ここまで見てきて、その面影が全く感じられなかったので、 外堀の役割があったといわれる「水門川」と城門があった「竹橋」まで、 少し歩いてみることにしました。

竹橋口門

水門川と竹橋

竹橋

奥の細道むすびの地

竹橋からもう少し水門川を下っていったところ。大垣は奥の細道の旅の終着地だったのですね。 出発は、我が家の自宅近くからなので、なんか感慨深いものがありました。 旅を終えた芭蕉は、ここから舟に乗り、伊勢神宮に参拝にいったそうです。

船町港跡

住吉燈台

大垣城の感想:★★☆☆☆

見学時間は天守内の展示や周辺散策などすべて含めて約2時間30分でした。その間の駐車料金は600円。

天守の外観復元、昭和34年ぐらいだとわけのわからない復興天守もありそうななか、 ちゃんと外観を復元したのはよかったと思いますが、 全体的に江戸期の面影がほとんど失われてしまっているのは、やはり残念。

ただ、今日、大垣城を訪れるまで、関ヶ原の戦いのときに、石田三成が本戦直前まで大垣城にいたことは全く知りませんでした。 そもそも、関ヶ原の戦いに至る経緯もよく知らなかったわけで、訪問をきっかけにそうしたことを少しでも勉強できただけでも、来た甲斐がありました。





最後に今回勉強したことを書き残しておきます。

関ヶ原の戦いまでの経緯

1598年、秀吉が死去し、朝鮮出兵の日本軍が帰国すると、豊臣政権内で武断派と文治派の対立が表面化します。 秀吉の生前に行われた朝鮮における蔚山(ウルサン)城の戦いの査定に武士達は不満を持っており、 それが三成の進言によるものであったことから、彼らは三成と対立するようになりました。

家康は家康で、豊臣政権の定めに従わず、独自の行動をとるようになり、前田利家や石田三成と対立。

1599年、武断派と文治派の間の調停を行っていた前田利家が死去すると、 福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政らが、大坂の三成屋敷を襲撃。
三成が京都伏見城内の自邸に逃げ込んだところ、伏見城下で政務を執っていた家康がこれを仲裁。 結果、三成は奉行職を解かれ、居城の佐和山城に蟄居。蔚山城の戦いの査定の見直しが決まりました。

同年末、家康暗殺計画が発覚。関与を疑われた前田利長(利家長男)、浅野長政がそれぞれ大老、奉行職を解かれ、 元々五大老五奉行の体制だった豊臣政権は、四大老三奉行となります。 結果、家康が主導権を握って、大坂城の西の丸で政務を行うようになりました。

これに大老の上杉景勝が反発。自国の會津にて軍事力の増強に乗り出します。

慶長5年(1600)6月、家康は上杉討伐を決め、大坂城を出発。 7月、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は、大老の毛利輝元に、家康が留守になった大坂への登城を要請。 17日、輝元の大坂到着と同時に、三奉行連署による、徳川家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状が諸大名に送付され、 石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の戦いが始まりました。

7月18日、西軍が家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を攻撃

7月24日、上杉討伐に向かっていた家康は三成挙兵の知らせを受け、 下野小山城に着いたところで江戸城に引き返し、三成討伐へ動きます。

8月1日、伏見城落城。西軍は、次いで京極高次の大津城、細川藤孝の田辺城を開城させ、 大垣城に進出した三成は、美濃をおさえて、伊勢に軍勢を派遣。尾張進出を目指します。

8月22日、西軍の前線基地、織田秀信(信長長男・信忠の子)が城主を務める岐阜城が、 尾張清州城の福島正則の攻撃を受けて、陥落。

西軍の毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊ら30000の大軍は、 伊勢上野城、安濃津城(津城)などを落として尾張に向かっていましたが、 東軍西上の動きを知って、美濃方面へ転進。大垣城での決戦の流れになります。

9月1日、家康が30000の兵で江戸を出立。9月14日、東軍は美濃赤坂(大垣)に進出し、 家康は大垣城の北西、赤坂岡山に陣を敷きました。 中山道経由でやってくる徳川秀忠の38000の別働隊と大垣城を挟み撃ちにする作戦でしたが、 秀忠の到着は遅れ、結局、関ヶ原の本戦にも間に合いませんでした。

同じ14日、15000の兵を率いた小早川秀秋が、関ヶ原の南西、 松尾山城にいた大垣城主の伊藤盛正を追い出し、ここに着陣します。 小早川秀秋は、伏見城の戦いでは西軍として戦いましたが、 この時点では、どちらの味方かわからない状態でした。

秀秋が寝返って松尾山が東軍の拠点になった場合、 大坂からの援軍の経路を断たれるため、これを嫌った三成は、 大垣城での籠城戦をやめて15日未明、関ヶ原の北西、笹尾山に移動。ここに陣を敷きます。
東軍もその後を追うように関ヶ原盆地に入り、家康は盆地を西方に見下ろす桃配山に本陣を定めました。

15日、関ヶ原決戦。10時頃より始まり、12時頃には決着。結局、秀秋は東軍でした。

杭瀬川の戦い

本戦前日の夜、局地的に勃発したのが、杭瀬川の戦い。 大垣城と赤坂岡山の間を流れる杭瀬川を挟んで行われた戦いで、 これは、西軍が島左近の活躍で勝利しました。

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