旅の最終日は佐賀城からスタート。佐賀藩・鍋島氏35万7000石の居城です。 明治維新を推進した「薩長土肥」の「肥前」とは佐賀藩のこと。 支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩がありました。
佐賀藩の歴史
1578年、豊後の大友宗麟が「耳川(みみかわ)の戦い」で薩摩の島津義久に大敗すると、
肥前東部の国人出身の龍造寺隆信は、大友氏から自立を果たし、
肥前国(現在の佐賀県と壱岐、対馬を除く長崎県)を統一。
1580年までに筑前、筑後、肥後、豊前へ急速に勢力を拡大しましたが、1584年、肥前の有馬晴信が離反すると、
島津・有馬の連合軍との間に起きた「沖田畷の戦い」で敗死します。
隆信の子・政家は、筑後・柳河城にいた家臣の鍋島直茂を呼び寄せて補佐役としました。
1585年、島津氏の侵攻を受け、滅亡寸前まで追い込まれた大友宗麟が、
1586年、大坂城に出向き、豊臣秀吉に助けを求めたことをきっかけに九州征伐がはじまると、
龍造寺氏は傘下に入っていた島津氏から離れ、豊臣軍に帰参します。
秀吉は、実質、龍造寺氏の指揮をとっていた直茂を高く評価。
九州平定後は、秀吉信任のもと直茂が主君に代わって国政を担うようになりました。
関ヶ原の戦いでははじめ西軍につきますが、東軍に寝返り、小早川秀包の久留米城、立花宗茂の柳川城を攻略。
黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪した結果、本領が安堵されました。
1607年、龍造寺家の当主が死去すると、
幕府公認のもとで直茂の子・が龍造寺家の家督を継ぐかたちで佐賀藩主となり、
藩の継承が行われました。
幕末の10代藩主・鍋島直正が有名。財政を立て直し、幕末の雄藩の一つに押し上げた人物です。
長崎の警備を福岡藩と交代でしていたことから、西洋の技術を取り入れやすかったのでしょう。
佐賀城
1608年に龍造寺氏の居城であった「村中城」を改修、拡張して築かれました。
四方を幅広の水堀で囲う典型的な平城で、城内には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、
旧龍造寺家の家臣の屋敷も配されました。
1835年の火災の後、鍋島直正により、それまでの二の丸御殿にかわる本丸御殿が建設されました。
その後、鯱の門(しゃちのもん)と続櫓以外は、解体されましたが、
平成16年に御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館しています。
訪問記
8:20、本丸入口の鯱の門のそばで、かつての二の丸にある駐車場に到着。 「佐賀城本丸歴史館」の開館時刻9:30まではまだ時間があり、 先に周囲を散策することにしました。
下の写真は、二の丸入口の門があった辺りから本丸方向見たところ。 左に見えるのが本丸入口の現存の建物、続櫓で、右に見えるのが天守台です。
昔の地図をみると、大きな堀に囲われた南東の一角が独立した島のようになっていて、その中に本丸と二の丸がありました。
二の丸があった場所は、周囲の堀もほとんど埋め立てられ、当時の面影はありません。
本丸の鯱の門と続櫓
天守台
天守台に登る階段は本丸の内側にはなく、外側から入っていきます。
狭い階段をのぼります。
付け櫓台の上より。正面が天守台。階段は当時のものではないようです。
付け櫓の上から、本丸西側の石垣を見下ろしたところ。 本丸の内側は土塁。石垣の外側には8-10mの帯曲輪があり、その外側は水堀でした。
付け櫓の上から、天守石垣。
天守台の上。天守は享保11年の火災で焼失してからは、再建されませんでした。
南堀
幅40間の堀。超カッコイイです。
堀の奥には「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣の「南西隅櫓台」。土塁の奥には本丸御殿の屋根が見えます。
三の丸の方向の堀には蓮の花が咲いていました。
南西角の堀
広い堀の外側から城のほうを眺めていると、だんだん内側の人との住んでいる世界の違いみたいなものを感じるようになりました。
西堀
西御門橋跡
城内に入る橋は4つあったそうで、その一つ。土橋、木橋、土橋という構造だったそうです。
西堀
西堀を北方向から。
北堀
北堀を西方向から。
北御門橋跡
現在は北側の堀には何本も橋が架かっていますが、昔はここだけでした。
東堀
東堀はほとんどが埋め立てられていて、二の丸近くに少し残っているだけ。 東側に架かっていた東御門橋、裏御門橋もどこにあったのかよくわかりませんでした。
堀を一周していたら、大分時間が経ってしまいました。。
本丸御殿
鯱の門をくぐって本丸御殿に行きましょう。
本丸御殿正面
御玄関を入ります。まずは100名城スタンプを忘れずに押しました。
北廊下
御殿の中は、廊下にも畳が敷かれています。
外御書院(そとごしょいん)
佐賀藩の公式行事が行われた場所。両側の廊下を合わせると320畳の大広間だそうです。
屯之間(たまりのま)
家臣の控室として使われていたところ。
御座間(ござのま)・堪忍所(かんにんどころ)
通路の途中から。右に見える建物です。近くの公園に移築され公民館として利用されていたものを平成の復元の際に元の場所に戻したのだそう。 地面に書かれた線は、復元されていない建物のあった場所を表したものです。
御座間
藩主の居間だったところです。
鍋島直正公と2ショット。
堪忍所
御座間向かいには警固の詰所がありました。
御殿の裏側
御殿を出て、裏側にまわりました。江戸時代にはこの空間は建物で埋め尽くされていました。
感想
所要時間は、堀をまわって1時間半、本丸御殿が1時間、合計2時間30分でした。
堀は思ったより広く、周囲を歩くのは大変でしたが、
綺麗さに感動したし、昔の地図と現在の地図を見比べながら町を歩くのも楽しかったです。
佐賀城に行ったら、是非堀も見てもらいたい。
本丸御殿は、これで入場料が無料というのですから、佐賀県は随分太っ腹だと思いました。
それでは申し訳なく、館内に置かれていた寄付の募金箱に、気持ち程度入れておきました。