この旅最後の訪問地は、弥生時代の大規模な環壕集落跡、吉野ヶ里遺跡です。
周囲に壕をめぐらせる形式は、城の原型とも考えられることなどによって、
100名城に選ばれたよう。
佐賀城からは車で約30分。
11時30分に吉野ヶ里歴史公園メインゲートの東口に到着しました。
吉野ヶ里遺跡では、弥生時代のすべての時期(紀元前3世紀頃から3世紀頃まで)の遺構、遺物が発見されており、
吉野ヶ里歴史公園は、そのうち、最盛期にあたる3世紀頃の様子を復元対象時期として、整備を行っているそうです。
訪問記
園内はとても広いので、どのくらい時間をとればよいか見当もつきませんでした。
案内所のおじさんに聞いてみたところ、ポイントをざっとまわるだけなら1時間。
2時間半あればほぼ全体を見ることができ、あとはお好みによって好きなだけどうぞ、とのこと。
意外にまわりやすい??
1時間なら、東口から南内郭→北内郭→北墳丘墓。
2時間半なら、そこから甕棺墓列に行き、自然植物園前から園内のバスに乗って、市と倉で下車。
そこと南のムラを見て、東口に戻るコースを勧められました。
何時までいられるかは、帰りの飛行機の時間との兼ね合い。
福岡空港でレンタカーを返す時間は15時55分。ナビによれば、吉野ヶ里歴史公園から福岡空港までは高速利用で約45分。
そこから逆算すると、ガソリン満タンで返す時間も含めて、リミットは15時頃。
これに1時間余裕を持たせて14時としました。
そうすると、今の時間は11時30分なので、2時間半コースもぎりぎりいけそうですが、
遅れると取り返しがつきません。
そこで、はじめは2時間半コースの順にまわり、バスを途中下車せず、
そのまま東口まで戻るルートにし、あとは状況に応じて調整することにしました。
結果的には、このルートでぎりぎり2時間半でした。
見学のペースにもよるでしょうが、
案内のおじさんに勧められたコースは、
最低3時間は見ないと難しい感じがします。
ゲートではマスコットの「ひみか」くんが迎えてくれます。
環濠入口
集落の入口、東の正門と考えられている場所。
「外壕」と敵の侵入を防ぐための「逆茂木」
南内郭
王や支配者層が住んでいたと考えられる場所。竪穴住居の建物跡が多いことから生活空間、
そこから当時貴重だった鉄製品が数多く発見されたこと、周囲が環壕と城柵で囲まれ、見張りの物見櫓跡もあることから、
そこが支配者層の空間、ということにされたそうです。
なるほどー、学者は遺跡からそのように考えるのですね。
写真は、入口の櫓門の上から南内郭をみたところ。一重の堀で囲われており、そこを入る門の両脇に物見櫓。
竪穴住居
竪穴住居は、同時期のものは構造やサイズがほぼ同じなのだそうです。
支配者層の家
中には髪の毛をとかしてもらっている女性がいました。
究極のミニマリストの生活ですね。炉は、煮炊きの痕跡が乏しく、主に暖や灯りをとるために使用されたようです。
王の家
支配者層の家とほぼ同じ形ですが、柵のなかにありました。
確たる証拠は見つかっていないものの、内部には就寝空間もあったと想定されています。 夫と妻はそれぞれ別々に家を持っていたようです。
ちなみに、トイレの跡は見つかっていないそう。 また、お風呂はこの時代にはなく、近くの川で水浴びをしていたと考えられているそうです。 文字が書かれた遺構も確認されていませんが、魏志倭人伝の記述から文字や言葉が存在していたことは間違いないそうです。
煮炊屋
住居の脇にある掘立柱建物は、共用の台所と考えられています。
集会の館
様々な協議や会合の場と考えられています。
物見櫓の上から
中央の広場を囲うように建物が建てられていたのがわかります。
以下の区域は立ち寄らなかったので、ここから眺めただけ。
倉と市
南内郭の西隣にある、武器や穀物、交易のための品々を保管する倉庫群。ここで市も開かれていたと考えられています。
南のムラ
集落全体で最も南に位置する、一般の人々の居住地と考えられている場所。壕の囲いはありません。
中のムラ
南内郭を出て、北内郭に向かう途中のエリア。 このあたりの住居跡は、祭祀的な性格の強い北内郭の近くにあることから、 祭祀権者の補佐をする祭祀者が暮らす場所と考えたそうです。
祭祀に使われる酒や絹織物なども作られていました。
北内郭
壕で二重に囲われたこの場所は、主に祭祀と政治が行われたところ。 吉野ヶ里遺跡で最も重要なエリアと考えられています。
かぎ型に折れ曲がった入口の構造は古代中国の城郭都市に多く見られるそうです。
正面に見えるのは「主祭殿」。16本の柱穴が見つかっており、吉野ヶ里で最も大きな建物。 北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸の線上あり、祭祀の中心となる建物と推定できるそうです。
主祭殿
物見櫓の上から見た主祭殿。吉野ヶ里遺跡のすべてにおいて言えることですが、 遺構は柱の跡しかないので、建物の上部は他の遺跡で発掘された絵画土器に描かれているものなどを参考にした想像復元です。
物見櫓の上から。二重の壕がわかります。遠くには「北墳丘墓」が見えます。
二階では、祭りの後の直会(なおらい)が行われていました。
三階では、祭祀権者による祭祀が行われていました。
高床住居
倉庫とは異なる正方形であること、魏志倭人伝に祭祀権者人前にめったに姿を現さないとあることから、 祭祀権者の住居と推定。
竪穴住居
北内郭唯一の竪穴住居は、祭祀権者に仕える従者の住居と想定されました。
斎堂
主祭殿脇のこの場所は古代中国の事例より、祭りの際に身を清める場と想定されました。
東祭殿
北内郭の中軸線である、夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に位置することから、 節季の祭りに関係した施設と考えられています。
甕棺墓列
北内郭を出て、北墳丘墓に行く途中のエリア。一般の人々の墓地です。
下の写真は中のイメージ。甕棺による埋葬方法は、北部九州で多く発見されている特徴的なものだそう。
奥には、紀元前1世紀頃の歴代の王の墓地である「北墳丘墓」が見えます。
その手前の建物は「祀堂」。墳丘墓に眠る祖先に毎日お供え物を捧げた施設と考えられています。
北墳丘墓
内部は現在、発掘した遺構面を覆った施設になっています。
ここにある甕棺は本物。
甕棺の中のイメージ。
埋葬の様子。
甕棺墓列(その2)
北墳丘墓を出て、北側のエリアにもお墓が並んでいます。一族ごとにかたまりになっていたようです。 小型のものは子どものもの。子どものお墓もたくさんありました。
バスのりば
古代植物館からバスに乗って環濠入口(東口)まで戻りました。東口までは約15分。 20分おきのバスが出たばかりだったので、バス待ちの間、館内で休憩。 ずっと暑かったので、500mlのペットボトルを一気に飲み干してしまいました。
田手川(たでがわ)
東口の駐車場に戻る途中にある、外郭の外側を流れる川。外堀の役目もあったと思われます。
感想
当時の社会や生活の様子がよくわかり、なかなかおもしろい施設でした。 出土したものから、その場所がどういう役割だったかを考えた経緯の解説を見ると、おもしろさも倍増。 1300年前、確かにここに住んでいた人がいて、それから様々な技術が発達し、現在があるわけです。