訪問日:2019年8月3日(土)
ナビに「大多喜城」と設定すると、大多喜城手前の町営駐車場に案内されました。 まずは、そこから坂道を上って徒歩5分、本丸跡に建てられた「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」を目指します。
坂を上っていった右側に「大多喜城二之丸公園」がありました。 二之丸という名前がついていますが、ここは本丸の西側で、通常二ノ丸と呼ばれている本丸の東側のエリアとは違います。 城があった当時、ここがどのような場所だったのかは、現地に解説がなくわかりませんでした。
もう少し坂を上って、来た道を振り返って撮った写真。左は本丸の土塁です。
本丸
天守風の建物は、「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」。 元々の天守は1842年に焼失したといわれていますが、はじめから無かったのではないかという説もあるほど、当時の遺構は跡形もありません。
現在の大多喜城は「本多忠勝推し」。土塀(模擬)には、本多家の家紋が入っています。
では館内へ。続100名城スタンプも館内にあるので、開館時間(9:00-16:30)と休館日(月曜)には注意が必要です。入場料は大人200円。 よく見たらこちらの屋根瓦には、大河内松平家の家紋が入っていました。
続100名城スタンプは2階にありました。
本多忠勝の有名な肖像画。なお、館内は撮影OKとそうでない展示物があり、OKのものだけ撮ったつもり。
本多家の系図。ちなみに、忠勝の子孫はその後転封を繰り返し、本家は三河岡崎藩で明治維新を迎えました。
大河内松平家の系図。
ジオラマで城の縄張りを確認。上が東の方角。本丸の向こうに二ノ丸、その先に三ノ丸が続きます。 現存する遺構は、二ノ丸の大井戸と二ノ丸御殿の裏門(薬医門)ぐらい。。天然の外堀、御禁止川(夷隅川)も見どころ。
明治初めに描かれた城の地図も見ておきます。これは上が南。 博物館のパンフレットには地図がなく、この後、城跡を歩いてまわるため、ここで位置をしっかり確認しました。
では、散策していきましょう。
二ノ丸、三ノ丸方向の眺望
現在、二ノ丸だった場所は、大多喜高校のグランドと校舎になっています。 校舎のある南側は眺望が悪く、下の写真は少し北寄りの方向を撮ったもの。
二ノ丸の大井戸
上の写真を撮っているときに、地元のおじさんに声を掛けられ、この大井戸と薬医門を教えてくれました。 薬医門は本丸からだと屋根しか見えないので、後で下に降りて行ってみましょう。
南東方向から本丸
本丸はそれほど広さはありません。
周囲の土塁
僅かにそれらしいものが残っています。
二ノ丸に降りていく坂道
改変されているかもしれませんが、古地図を見ると道自体は当時もあったようです。
坂道の途中、本丸側の崖に3か所ぐらい細い洞窟がありました。解説はなく、どういうものかはよくわかりません。
二ノ丸
坂を降りてすぐのところに大井戸。本多忠勝の時代に掘られたもので、今でも水が溜まっています。 奥に見えるのが高校のグランド。
薬医門
1842年の火災の後に建てられた二ノ丸御殿の裏門で、唯一残る建造物。ただし、元の場所からは移築されています。 左に見える建物が高校の校舎。御殿のあった場所です。
二ノ丸と三ノ丸の間の土塁?
ちょっと物足りないので、他に少しでも城の跡のようなものを探しました。
夷隅川
三ノ丸の入口にあった大手門跡に行こうとしたのですが、地図なしではよくわからず。 メキシコ通りという名の、来るときに車で通ってきた道路に出たので、 そのまま駐車場のほうに歩いていくと、左手の大きな川が大多喜城の天然の外堀である「夷隅川」でした。
川の写真を撮っていると、三脚を持ったおじさんが歩いてきて、先の鉄橋に向けてカメラを準備しはじめました。 「電車が来ますか?」と聞くと、「あと3分ぐらい」と言われたので、一緒に撮ることにしました。
そうして撮ったのがこれ。連写した数枚のうち、この写真はちょっとピンボケしていますが、 電車の位置が良かったので、画像をシャープに加工して採用しました。 もうちょっと上手に鉄道写真が撮れるようになれたらいいなぁ。
大多喜水道
駐車場の近くまで戻ってきました。これで、本丸、二の丸、三の丸の南半分をぐるっとまわった感じでしょうか、 傍には、幕末に整備された水路の跡がありました。
車で大多喜駅のほうに移動し、四ツ門跡のそばに車を停めて、もう少しだけ周辺を歩きます。
四ツ門跡
四ツ門は、城の中から数えて四番目の門だったことからそう名付けられたそうです。 正面の左右の道は城下町通り。城下町のメインストリートです。
そこにあった地図を見ると、先程場所がわからなかった大手門跡がここから近いことがわかったので、 行ってみることにしました。
大手門跡
中に入ったところが三の丸になります。
古地図を見ると、左の道は、城があった当時は水堀だったと思われます。
渡邉家住宅
最後に城下町を少しだけ。四ツ門跡の前の城下町通りを右に行ったところにある渡邉家住宅は、 1849年に建てられた商屋造りの建物。重要文化財になっています。
大多喜城の歴史
1521年、上総武田氏の一族の真里谷(まりやつ)信清が小多喜城を築いたのがはじまり。
1544年、真里谷氏が安房の里見氏の武将、正木氏に城を奪われた後は、
里見氏の上総国東部の支配拠点として機能していたようです。
1590年、里見氏は、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣したものの、
戦後、惣無事令違反を問われ、上総、下総の所領を没収され、安房一国に減封されます。
徳川家康は、関八州250万石に移封されると、100万石余りといわれる直轄地の他に、有力な家臣を支城に配置しました。
上総国夷隅郡には、里見氏の抑えとして、徳川四天王の一人、本多忠勝が10万石で入りました。
忠勝は、入封後すぐに小多喜城の改修に着手。蛇行する夷隅川で外堀を固め、本丸には3層4階天守、二ノ丸に御殿、
三ノ丸には家臣の屋敷、馬場、9つの隅櫓などを配した近世城郭に変え、名前も大多喜城と改めました。
城下町の整備も行い、現在ある町の基礎を築きました。
忠勝が1601年、関ヶ原の戦い後に伊勢桑名藩に移ると大多喜藩は次男の忠朝が5万石で継ぎますが、忠朝は1616年、大阪夏の陣で戦死してしまいます。
幼少の忠朝長男・政勝に代わって跡を継いだ忠朝の兄・忠政の次男・政朝は、1617年に播磨龍野藩に移封となり、
武蔵鳩ケ谷藩から阿部正次が3万石で入封しました。
阿部氏は、家康が今川氏の人質だったころより仕える譜代の臣。
正次は、1626年2代目の大坂城代に任じられ、死去する1648年まで、22年間務めました。
これをきっかけにその分家も大名に取り立てられるようになり、
正次以降も幕閣を担う有能な人材を幕末まで多数輩出しました。
正次は、2年で小田原藩に移封になりますが、夷隅郡の所領は保持。大多喜藩は一時廃藩となります。
1623年、岩槻藩主だった青山忠俊が、三代将軍徳川家光の勘気に触れ、
老中を免職されたうえ、大多喜藩に2万石で減転封(→1625年改易)。
このとき、岩槻藩には交代で小田原藩から阿部正次が5万5000石で入封しました。
青山氏も、家康の父松平広忠の頃より仕えた譜代の家臣。
忠俊の父・忠成は、家康が関東に移ったとき江戸町奉行に任じられ、江戸幕府では老中も務めた人。
忠俊の子・宗俊は、父とともに蟄居の後、家光に許されて再出仕。
1648年、信濃小諸で大名に復帰し、1662年には大阪城代にもなりました。
東京の青山の地名は、そこに青山氏の屋敷があったことが由来と言われています。
1638年、岩槻藩主・阿部正次の長男の長男にあたる阿部正能(まさよし)が1万石を分与され、
大多喜藩を立藩。
岩槻藩では、1647年に正次から家督を継いだ正次次男・重次が1651年、家光の死去に伴い殉死。
1659年、重次長男の定高が25歳で早世すると、その子の正邦が幼少のため、重次次男の正春が継ぎました。
1671年、忍藩主で家光、家綱の2代にわたり老中を務めた正次の甥・阿部忠秋の隠居に伴い、
正能が忍藩を相続(大多喜藩領は忍藩に統合)すると、岩槻藩の阿部正春は、
正邦にその家督を譲り、自らは岩槻藩の大多喜領1万6000石を分割し、大多喜藩に移りました。
1702年、正春が三河刈谷藩に移封になると、入れ替わりで稲垣重富が25000石で入封します。
しかし、僅か21日で下野烏山藩に移り、1703年、大河内松平宗家3代目の松平正久が2万石で入城して、ようやく藩主が安定。以後、大河内松平宗家が9代続き、明治維新の廃藩置県を迎えました。
稲垣氏は、元々三河の国人領主だった牧野氏の家臣でした。
重富の父・稲垣長茂は、主君の牧野康成が家康に仕えるようになると、それに従い、
家康が武田氏と争奪戦を繰り広げた諏訪原城攻めなどで陣代として活躍。
家康の関東移封後は、その直臣となり、関ヶ原の戦い後に上野伊勢崎藩主になりました。
子孫は伊勢鳥羽藩で明治維新を迎えます。
大河内松平家は、はじめ三河吉良氏に仕え、その没落後、家康に仕えた大河内秀綱の次男・正綱が、家康の命により、松平氏の庶流、長澤松平家の分家に養子として入り、松平姓を称したのがはじまり。
松平正綱は、家康の側近として重用され、二代将軍秀忠のもとで、相模玉縄2万2100石の大名となりました。
ちなみに、大河内秀綱の長男・久綱の子の信綱は、5歳の時、将軍の近習を勤めることを望み、
叔父の松平正綱に頼み込んでその養子になった人物。
希望は叶い、のちに「知恵伊豆」と呼ばれ、島原の乱や明暦の大火などに対応。
酒井忠勝、阿部忠秋らともに、家光、家綱の2代の将軍に仕え、徳川家を支えました。