続日本100名城:岐阜県郡上市の郡上八幡城に行く

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訪問記(2019年9月7日)

郡上八幡ICを下り、レトロな雰囲気の城下町を抜けて、標高354mの八幡山へ。 中腹に13台、天守のある山頂に20台ほど、停められる駐車場があります。 中腹の駐車場から山頂の駐車場へ向かう道の入口には案内のおじさんが立っており、 「道幅が狭いので、気をつけて行って」と言われました。

中腹から山頂までは歩くと15分。事前に調べた口コミ情報でもこの先の道は危ないという書き込みが多数あり、 ここから歩くことも考えていましたが、この日はとても暑く、それはそれで大変そうだったので、 やっぱり車で上まで行くことにしました。

程なく山頂に到着。結局、道は自分としては気をつけて行けば問題ないレベルでした。 何はともあれ、無事に着けてひと安心。時刻は12:30。東京の自宅からは休憩なしでちょうど5時間でした。 それにしても車の運転は3時間を超えると疲れますね。。

郡上八幡城案内図

まずは駐車場脇の案内図で現在地とお城の場所を確認。写真のおすすめスポットも載っていました。 どこをどう撮ればいいか迷うことがあるので、こういうのはありがたいです。

苔むした石垣の脇を歩き、お城のほうに行きます。

隅櫓が見えてきました。どんなお城か楽しみ。。

絶景スポット1「城の全景」より

道なりに行った突き当たりに一つ目の絶景スポットの看板がありました。 まずはそこから一枚。「全景」ですが、天守の左右にある隅櫓は木で隠れます。。

天守を大きくしてもう一枚。天守は大垣城を模して昭和8年に木造で建てられた模擬天守。 カッコいいし、築85年の歴史もあって好印象。

来た道を少し戻り、南の隅櫓を入れてもう一枚。 お城の建築物は、天守に限らずすべてが復興で、江戸時代に実際あった建物とは形状が異なります。 復興には偽物っぽさがつきまとい、あまりいい印象はないのですが、このお城はよくできています。

絶景スポット2「迫力ある城の構図」より

こういうところは、カッコよく撮るのが意外と難しいんですよね。。 ところで、石垣の上の方と下の方で色が違いますが、これは下の部分は江戸時代からのもので、上の部分は後に積み直されたものでしょうか。

絶景スポット3「魚のカタチの城下町」より

眼下の城下町が魚の形に見えるというスポットですが、どうでしょう。 それはともかく、狭い盆地の間にびっしり建物が建ち並んでいる様子はよくわかりました。

赤谷山(東殿山)

売店の奥に「赤谷山城の戦い」についての説明板がありました。 説明版の向こうに見える山が、赤谷山城があった赤谷山です。

郡上の地は、鎌倉時代の「承久の乱」の後に地頭として赴任してきた下総国の豪族・千葉氏庶流の東氏(とうし)が支配を続けてきました。 1559年、当主・東常慶(とうつねよし)の娘婿になった家臣の遠藤盛数が、 常慶の実子・東常堯(とうつねたか)に兄・遠藤胤縁(たねより)が暗殺されたのをきっかけに挙兵。 東氏の居城・赤谷山城を攻め、東氏を滅ぼし、支配を継承しました(赤谷山城の戦い)。
この戦の際、遠藤盛数がここ八幡山に陣を構えたのが、郡上八幡城の創始です。

案内人の無料ガイドを聞く

赤谷山の説明板の前にいたところ、ちょうどここで現地ガイドさんによる無料のお城解説がはじまったので、それを聞くことにしました。

時間は45分程度。内容は、城の沿革と歴代城主について、築城にまつわる2つの言い伝え(力石伝説・およし物語)、 戊辰戦争時に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊・凌霜隊(りょうそうたい)の塩原宿でのエピソードなど。

特に凌霜隊(りょうそうたい)に関することは、自分だけでまわっていたら確実にスルーしていましたから、 話が聞けてよかったです。

郡上八幡城の歴史

東氏を破り八幡城主となった遠藤盛数は、美濃の戦国大名斎藤氏の配下となります。 1562年に死去すると、子の遠藤慶隆が13歳で跡を継ぎました。

1567年、斎藤氏が滅亡すると織田氏に属し、姉川の戦いで奮戦。所領を安堵されて、その後も信長の戦に参戦しました。 1582年、本能寺の変後は、清洲会議を経て美濃の国主となった織田信孝に与し、 秀吉方の美濃金山城主・森長可と争いますが、1584年、信孝降伏の知らせを受けて和議を結び、 その後は秀吉の配下となって各地で戦いました。

ところが、慶隆は、1588年になって秀吉の不評を買い、美濃の加茂郡小原に減転封されてしまいます。 代わって美濃の曽根城より八幡城に入った稲葉貞通が、城の大改修を行い、 現在残されている近世城郭のかたちを作りました。

1600年、石田三成が挙兵すると、岐阜城主の織田秀信(信長長男・信忠の子)は西軍に加担。 稲葉貞通も家康西上を阻止するため犬山城に入りますが、 遠藤慶隆は東軍に与し、家康から勝利の後は郡上一円安堵の約束をとりつけて、貞通が留守の八幡城を攻撃。 貞通も旧知の福島正則からの勧めで東軍に寝返り、八幡城に戻って慶隆に応戦。東軍同士で争うかたちになりました(八幡山の戦い)。
関ヶ原の戦い後、稲葉貞通は豊後国臼杵城に加増転封となり、遠藤慶隆は八幡城に復帰して郡上藩を立藩します。

その後、遠藤氏はお家騒動もあって、5代で無嗣改易(のちに近江三上藩で家名は存続)。 徳川譜代の家臣である井上氏2代の後、元々飛騨高山の城主だった金森氏が出羽上山藩より入城しますが、2代目の頼錦(よりかね)のときに百姓一揆(郡上一揆)が勃発し、これが原因で改易。

1758年、丹後宮津藩より青山氏が4万5000石で入城すると、 以後7代、若年寄や寺社奉行など幕府の重職を担いながら明治維新を迎えました。

戊辰戦争が起こると、郡上藩は新政府軍につきますが、家老の息子を隊長に一部の脱藩士が凌霜隊を結成し、会津藩とともに戦いました。 この部隊、一説には、関ヶ原の真田家のように、幕府側が勝利した場合に備えて、結成されたと言われています。
戦争終結後、凌霜隊のメンバーは藩に戻ったものの、罪人として扱われ、厳しい立場に置かれたそうです。

天守入口

それでは、手前の切符売場で入場券(310円)を購入し、天守に向かいましょう。

桜の丸

天守前のスペース。

左手の門も復興ですが、雰囲気があります。

奥の院

江戸期の城の改築の際に人柱となった17歳の娘「およし」を祀る祠。 人柱というのは、今の時代からすると本当にひどい風習ですね。。

天守内部

横の附櫓から入ります。

天守一階。続100名城スタンプもここにあります。 天守の中は、ギシギシと床の音が鳴り響いていました。

青山氏時代のお城と城下町の模型。青山氏のときに、中腹にあった二の丸を本丸と改称し、 山上部分は、南北二つにわけて、桜の丸、松の丸と呼ぶようになったそうです。 平和な時代に、山のお城は不便ですからね。。

遠藤氏の甲冑は、遠藤慶隆が、1570年「姉川の戦い」のときに使用したと伝えられているもの。

内助の功で有名な山内一豊の妻・見性院(千代)の出自は諸説ありますが、 形見の品に遠藤盛数の妻の実家・東氏の古今和歌集があることなどから、遠藤盛数の娘説が有力なのだそうです。

町は「一豊の妻」の故郷であることを大アピールしていました。 歴代城主はみなちょっと地味ですからね。。

天守から西の眺望

お城の表玄関である大手の方向。

天守から南西の眺望

絶景スポット2の場所より、こちらからのほうが城下町が魚のカタチに見えました。 尾ひれにあたるところに少し見える川は、城の南を東西に流れる吉田川。 城下町は、城の西側と南側に、L字状に広がっていました。

天守から東の眺望

こちらは江戸時代には拓けていなかったほう。なんとなく新しい感じがわかります。

天守外観

天守を出て、天守北側の松の丸のほうへ向かいます。 その途中、先ほどの絶景スポット2を少し進んだところから一枚。この構図もカッコイイですね。

松の丸の入口

左の建物は北の隅櫓。

松の丸

左に見えるのは凌霜隊の碑です。

本丸跡

山頂を後にして、中腹の駐車場に立ち寄りました。 ここは青山氏の時代に本丸だった場所で、現在は公園になっています。 山内一豊とその妻の像が目印。遺構としては「土霊水」と名づけられている井戸だけが残っています。

井戸は木の陰に隠れていました。

本丸から見た城下。ここなら城下町も近くて楽ですね。

城下町

郡上八幡は豊かな水の町。せっかくなので城下町も少しだけ散策しました。 駐車場はあちこちにありますが、どこも一日500円。

大手門跡

前の四つ角がその跡で、明治維新までここに黒塗りの大きな門が建っていたそうです。

宗祇水(そうぎすい)

名水百選第一号の名水スポット。

小駄良川(こだらがわ)

宗祇水のすぐ横を南北に流れる川。南は吉田川と垂直に合流します。 水遊びをしていた人たちに混じって川に手を入れてみると、冷たくてびっくり。

顔を洗ってしばし休憩。水のそばにいるだけで涼しくて、生き返りました。

この日はたまたま郡上おどりの最終日。城下町には、浴衣を着た若者がちらほら。 夜は賑わって楽しいんだろうなぁと思いつつ、お土産に「水の雫」という水菓子を買って、町をあとにしました。

帰りは5時間かからず、21:30には家に到着しました。





 

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