苗木城は、テレビや雑誌で"特徴的な石垣と天守跡からの絶景"が紹介されてから人気が出て、
多くの人が訪れているお城です。
城まであと少しのところで、道に立つ案内のおじさんに手前の第三駐車場に誘導されました。
お城近くの駐車場は一杯のようで、ここから歩いて坂道を上がり、お城に向かいます。
時刻は11時過ぎ。天気のいい日を狙って今日訪れることにしたのですが、10月とは思えない暑さは想定外。
見どころ満載のお城なので頑張らないと。。
苗木遠山家廟所
歩き始めて数分のところに、ちょっと不思議な、道の両側にお墓が立ち並んでいる場所がありました。
そこは苗木藩の大名遠山家とその家臣団の墓地。
現地説明板によると、苗木藩は1万石の小藩でしたが、江戸幕府がはじまって以来、
藩主の国替えが一度もなかったことで、こうした累代のお墓が残っているのだそう。
ただ、お寺のほうは明治に入ってからの「廃仏毀釈」で、跡形もなく壊されてしまいました。
苗木藩では廃仏毀釈が徹底的に行われ、今もその領内にはお寺がほとんどないそうです。
1万石でもやっぱり大名はすごいですね。上の駐車場に停めたらきっと素通りしてたので、よかったかも。
苗木遠山資料館
続いて見えたのは、苗木遠山資料館。入館料は330円。続100名城スタンプも受付に置かれています。 ここにある「苗木城 城山と歴史」という小冊子が、よくまとめられていておすすめ、 とネットで見た記事で紹介されており、これも購入しました。500円。
遠山氏の祖は鎌倉時代前期の御家人・加藤影廉(かげかど)。
源頼朝から美濃国恵那郡遠山荘を与えられ、その子景朝が遠山氏を名乗ったのが始まり。
戦国時代は、美濃の斎藤氏、甲斐の武田氏、尾張の織田氏に挟まれて、大変だったようです。
1574年、苗木城の城主となった遠山友政は、織田信長が本能寺の変で倒れた後、
後継者となった豊臣秀吉には従わず、美濃金山城の森長可との争いに敗れて一時城を失いますが、
それから18年後、関ヶ原の戦いのときに徳川家康の命を受けて、奪還に成功。
その功によって苗木領1万石の大名となり、以後、12代友禄(ともよし)まで遠山氏が続き、
明治維新を迎えました。
幕末53いた1万石の大名のうち、「陣屋」ではなく城を持っていたのは、苗木遠山氏だけだったそう。
また、最後の藩主・友禄(ともよし)は、外様大名としては異例の若年寄となり、
第二次長州征伐の際には、14代将軍徳川家茂に随伴して、大坂城まで行った人だそうです。
以下は、展示されていた城の模型。手前のごつごつした岩のほうが南で、向こうが北になります。
南側の一番高い建物が天守。崖の上に長い柱を立てた「掛け造り」の建物。
こうしたつくりの建物が所狭しと立ち並んでいたようです。
一番北の少し背の高い建物が三の丸の大矢倉。西側の一段低い部分が二の丸で、
そのうちの手前の大きな建物は藩主の住居です。
事前学習はこれくらいにして、城に向かいましょう。
苗木城
資料館のところからさらに坂を上がったところに城に一番近い駐車場がありました。入口はすぐそこです。
竹門
城の入口。苗木城では、門番もおらず明け放しの門を竹門と呼びました。 上の案内図に書かれていませんが、城には竹門が2ヶ所あり、ここがそのひとつ。
足軽長屋跡
入口を入ってすぐ右手の広場。足軽の宿泊施設など数棟の建物が建っていたそうです。 足軽は登城の際、はじめにここに立ち寄ることになっていたようです。 現在は、苗木城のビュースポット。
おお、これはすごい。天守展望台は京都・清水寺のような掛け造り。気持ちが高揚します。
風吹門(かざふきもん)
石畳の道を歩いて行った先に門跡がありました。ここは三の丸への入口。 説明板によると、右側には門番所が併置され、昼夜問わず通行の監視をしていたそう。 細かい説明板の解説も、建物の痕跡の石が残っているので、すっと頭に入ってきます。
資料館にあったのはここの門です。城主の在城時のみ開門。 城主が参勤交代で江戸在府中のときは締め切られていて、 門の右側にあったくぐり戸を利用していたそうです。
大矢倉跡
風吹門を入った左側に、巨石を利用して作られた巨大な石垣の台があります。 この石垣の奥の一番高いところに「大矢倉」があり、 手前には二棟ほどの建物が風吹門まで連なり建っていました。
大矢倉の部分。二層三階の建物だったそうです。櫓の向こう側に北門があり、 大矢倉にはその北門と風吹門の防御する役割がありました。
石垣の台上から天守をみたところ。
駈け門(かけもん)
山麓の大手門から三の丸に入る通用口。
駈け門を出た先には、2つめの「竹門」があり、 その先は急な坂を九十九折に曲がる「四十八曲り」という道が木曽川筋の大手門まで続くようです。
牢屋跡
三の丸の南の薄暗い隅に何か説明板があるのを見つけ、行ってみるとそこは牢屋跡でした。 前に見える石の上に建物があったようです。
大門
大門の前は記念写真スポット。
大門は二の丸への入り口の門。すぐ先に、本丸に上がっていく綿蔵門も見えています。 綿蔵門手前の右下部分には、藩主住居へ続く「勘定所門」がありました。
御朱印蔵
大門を入って左側の石垣。この上には土蔵があって、 徳川家より代々くだされた御朱印や刀剣などの宝物が保管されいたそうです。
綿蔵門
本丸に続く最初の門。夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められました。 門の二階に年貢として納められた真綿が保管されていたことがその名の由来だそう。
二の丸御殿
綿蔵門を過ぎたあたりから眼下の藩主住居を見たところ。 江戸時代は土塀があったので、このようには見通せなかったはず。
坂下門
綿蔵門からの登り坂を折れ曲がったところに坂下門。
現地説明板に「二脚からなる門の礎石がよく残されている」とあったので、撮ってみました。 ここに限らず、このお城は一つ一つの門の礎石が本当に良く残っています。
菱櫓門
さらに坂を上がったところに菱櫓門。
千石井戸
菱櫓門をくぐった先には「本丸口門」が見えますが、まずはその脇の井戸から見ていきます。
それほど深さはないとのことですが、城跡の井戸でこれだけ水が張っているのも珍しいのでは。
的場(本丸)
井戸の奥は的場。苗木城内に的場は2つあり、その一つ。弓などを練習する場所だそうです。
本丸口門
それでは「本丸口門」を入っていきましょう。ここからが本丸エリアになります。
本丸口門を入った右手には「具足蔵」、その奥に「武器蔵」がありました。 以下は、武器蔵の跡の場所から「天守」を見上げた写真。
折り返す坂を登り、天守のほうに上がっていきます。
玄関口門
通常は鍵がかけられていて、中に入ることはできなかったそう。
本丸玄関
玄関口門を入り、その先を右に大きく曲がったところが本丸玄関。 玉石が敷かれているあたりが玄関で、復元にはここから見つかった玉石も使われているそう。 当時は玄関を入って、掛け造りで作られた千畳敷をまっすぐ進み、 今の階段よりももう少し南東から回り込んで天守のほうに行ったようです。
本丸玄関の脇から見た天守の裏側。建っているのは完全に岩の上。
本丸玄関の前から見た三ノ丸の「大矢倉」。ここから見るとまた迫力があります。
天守展望台
本丸玄関の階段を上った先。ようやく天守に着きました。
天守展望台からの景色(南東)
「中津川宿」の方向。手前の川は「木曽川」で正面奥の山が「恵那山」。 恵那山には残念ながら雲がかかっていました。
天守展望台からの景色(西)
「恵那峡」の方向。手前の赤い橋は「城山大橋」。奥の山は「笠置山(岐阜県)」。 笠置山、カッコイイですね。
天守展望台
掛け造りの展望台は、元々天守があった位置にその三階の床面を想定して復元したものだそうです。 岩の柱穴は、実際に天守で使われていたものを使用しているとのこと。 今はぽつんと独立して建っていますが、江戸期には天守の周りに建物が連なっていました。
展望台の岩を見ながら西の石段を下りていきます。 岩を巧みに利用しながらといっても、ここまでやりますかねー。
岩の間の足りないところは石垣で埋めています。
そして目の前にはなんだか巨大な石が。。
馬洗岩
その巨石は「馬洗岩」。戦国時代にこの岩の上で馬を洗ったという伝説があるそうです。
武器蔵と具足蔵
ちょうど本丸を時計回りに一周した感じで、「玄関口門」の下まで戻ってきました。 先ほどは人がたくさんで撮ることができなかった、武器蔵と具足蔵を撮影。
笠置矢倉
本丸の南西の曲輪。笠置山が見えることからそのように名付けられたそう。 本丸に入ったときからこの山はすごく目立っていました。
笠置矢倉から見た「馬洗岩」。裏側がこんな風になっていたとは思いませんでした。。
笠置矢倉から見た「天守」。
帯曲輪
「本丸口門」を出て右手、「的場」の左側の一段下がったところに細い道があります。 らせん状の道を進んでいくと、先ほど「綿屋門」の下に見た「藩主住居」に出るので行ってみましょう。
仕切門
藩主住居のほうから続く二の丸と本丸を仕切る門。これより先が二の丸になります。
清水門
仕切り門から歩いてきた方向から門を出て振り返ったところ。このあたりが城の真南になります。 左に見える巨石の下から湧水が出ていたことがその名の由来。
不明門
開かずの門。現地説明板には、 「普段は締め切られ、忍びの門であるといわれているが、現在門から外につながる道は確認できていない」 と書かれていました。
門の外を覗いてみると、確かにそんな感じ・・。
不明門を脇をあがった先は、倉庫や女中部屋のあったスペース。
的場(二の丸)
その先、右の石垣の上が藩主住居になりますが、まずはその下の的場から。 ここでは槍や鉄砲の稽古も行われたそう。
藩主住居
藩主住居を反対から。手前は家臣の集まる書院、台所が続き、一番奥が藩主の部屋でした。
台所門
台所近くの門を上がったところが「勘定所門」。 これでひとまわり出来た感じ。「大門」を出て、駐車場に戻りました。
建物はなくても門の跡などどれもしっかり残っていて、昔の姿がイメージしやすい城でした。
説明板の解説も、当時の生活の様子までわかりやすく書かれていて、想像の助けになりました。
盛りだくさんなので、一つ一つ見ていくと大変ですが、すっと通り過ぎてしまうのは勿体ないです。
何となく道なりに歩いていけば、ぐるっと一周、ひととおり見てまわれるのもこのお城のいいところ。
もう少し涼しい季節にいつかまた来てみたいと思いました。