生まれ育った町の町名の変遷を調べて歴史に思いを馳せてみる

  •  
  •  
  •  Category:

ターゲットの町は東京都江東区東陽
親から聞いた話では、金沢藩の武士の家に生まれた曽祖父が東京に出てきて、 ここに住み始めたのだそうです。

地下鉄東西線の東陽町駅がある町。 私が子どもの頃は何もないところでしたが、最近はすっかりオフィス街。 人は侮蔑の意も含めながらゼロメートル地帯と言ったりしますが、日本橋まで4Kmの近さ。 道路も碁盤の目のようになっていて走りやすいですし、私は気に入っています。

思いつきで始めた調査は、徳川幕府の治水事業や明治維新以降の地方自治制度も絡んで、 思いのほか壮大なスケールになってしまいました。 どうしていいかわからなくなり、記事を完成させるのに10日以上かかりましたが、 どうにかまとめてみたつもりです。

平井新田

現在の東陽2-5丁目、南砂2丁目、新砂1丁目にかかる一帯は、 江戸時代中頃にできた埋立地で、はじめは開拓者の名前から「平井新田」と名付けられました。 江東区役所の前にそのことを説明する表示板があります。

平井新田塩浜跡

1830年に作成された「新編武蔵風土記稿」には、 「明和2(1765)年に平井満右衛門と虎五郎が深川洲崎(すさき)の東の干潟を埋め立てて造った」と書かれています。 総坪数は20万坪余りで、埋め立て期間は6月17日から11月22日までの僅か5か月。 埋め立てには、江戸城の堀をさらった土が使われたそうです。

最初は塩田として開発されましたが、潮の便が悪くこれは永続きしなかったそう。 海岸線は現在の永代通りを一つ南に入った道あたり。 明治に入ってさらに南側が埋め立てられるまで、 ここが日の出の太陽が海から上がるのが見えるウォーターフロント。 潮干狩りや船遊びで賑わう観光地だったようです。

尾張屋版江戸切絵図の深川絵図(1852)

1852年に作られた絵図でいうと、赤枠で囲った一角が「平井新田」のエリアになります。 細川越中守(肥後熊本藩)の町並屋敷が大きな面積を占めています。 町並屋敷は、幕府から拝領された上・中・下屋敷と異なり、大名が町人から購入した屋敷のこと。 使われ方ははっきりしていませんが、町人に貸し出すなどされており、譲渡も頻繁に行われていたようです。
「風土記稿」には、林肥後守(上総請西藩)の抱屋敷についても記載があります。 抱屋敷は、百姓地を購入して建てた屋敷のこと。 譲渡が繰り返された後、文政11(1828)年に、林肥後守の所有になったそうです。

深川絵図

本所深川町屋絵図(1843)

これは先日、江東区中川船番所資料館に行った時にみたもの。 平井新田の海沿いのところは「六万坪」と書かれています。 六万坪は、先の尾張屋版の絵図にもありますが平井新田の北隣りで、現在の東陽6、7丁目のあたりのこと。 平井新田より少し前にできた埋め立て地です。天保14(1843)年には「平井新田」もできていたはずなので、 堀を挟んで、海沿いの名前のない細い部分が平井新田なのでしょうか。 しかし、平井新田は20万坪ですから、それだと随分狭いので、ここには描かれていないのかもしれません。

平井新田

深川洲崎十万坪

歌川広重(1797-1856)の名所江戸百景にも、 このあたりのことを描いた「深川洲崎十万坪」という絵があります。
「洲崎」は、当時すでに現在の東西線木場駅の南東、大横川を渡ってすぐのところに「洲崎弁天社(現・洲崎神社)」があり、 その辺のことでしょうか。まぁだいたい海沿いを洲崎といったみたいです。 「十万坪」とは、先の絵図で見た「六万坪」の北隣り。現在の江東区千田、海辺、千石あたりのことです。 後ろにみえる山は筑波山。鳥は諸説ありますが、イヌワシだそう。
海岸線の土地は「平井新田」でも良さそうですが、なんだか寂しげな感じ。 寛政3(1791)年の台風による高潮で、このあたりは壊滅的な被害を受けたそうなので、 それが関係しているのかもしれません。

深川洲崎十万坪

武蔵国葛飾郡・西葛西領新田筋・平井新田

現在の江戸川下流域一帯は、古代の頃から葛飾郡と呼ばれており、江東区エリアもそこに含まれます。 といっても、江東区にあたるところは戦国時代にはそのほとんどが湿地帯で、 人が住める土地は亀戸あたりに少しだけだったようです。

その頃の利根川は、現在の隅田川にあたる川に繋がっていました。 そしてこれが武蔵国と下総国の境だったので、葛飾郡は下総国でした。

江戸時代はじめに利根川東遷事業(1621-1654年)という治水工事が行われ、 利根川の水が江戸川(と常陸川)に流れるように変えられました。 その結果、国境の川が隅田川から江戸川に変わり、葛飾郡も江戸川の西岸が武蔵国、東岸が下総国に分かれます。
(利根川は、昭和3年に常陸川の流路のみが残り、江戸川はその支流となりました)

これ以降、江東区エリアは武蔵国葛飾郡となりました。

江東区エリアの埋め立ては、徳川家康の江戸入府直後から始まり、 明暦の大火(1657)をきっかけに西の地域は町として栄え、東の地域は農村として発展していきました。 「平井新田」は、西と東の境目に位置する、江戸時代最後の大規模埋め立てによる造成地です。

「江戸」は長らくその市域の範囲を定めるものがありませんでしたが、 文政元(1818)年にはじめて幕府の見解が示されます。
このとき、絵図の上に朱色の線でその範囲を示したことから「朱引(しゅびき)」といわれ、 江戸の内側を朱印内(うち)、外側を朱印外(そと)と呼びました。 江戸の東部は「中川」(今でいえば荒川)が境とされ、江東区全域は江戸に含まれました。

朱引
ブラタモリより

同時に絵図に引かれた黒い線は墨引きといわれ、町奉行支配地域を表しました。

明治11(1878)年、東京府南葛飾郡平井新田になる

慶應4(1868)年、徳川幕府より政権を奪取した明治新政府は、 江戸市中の旧町奉行支配地域に、江戸府(のち東京府)を設置しました。 その後、東京府の管轄範囲は広げられ、明治元(1868)年、周辺100か村が編入されます。
「平井新田」含む江東区の村は、このとき東京府になったのではないかと思われます。

東京府は、まず旧町奉行支配地域を50番組に分け、江東区内の旧町奉行支配地域を46-49番組としました。 次に、その外側の地域についても地方(じかた)5番組というものを作って50番組と同等の扱いとし、 江東区内の村落地域を、朱引外5番組に編入しました。

明治4(1871)年、7月の廃藩置県より全国的に再編が行われていきます。 江戸川流域に置かれていた小菅県は廃止され、 江戸川区、葛飾区など現在の東京都エリアにあたる地域がそこから東京府に移管されました。
大区小区制が施行され、東京府全域が、6大区97小区に再編。 江東区エリアは「第六大区」に属しました。

明治6(1873)年3月、ふたたび区割りが見直され、東京府は11大区103小区となり、 江東区エリアは、およそ深川地区が第六大区第1-5小区、城東地区が第十一大区2-3小区になります。 現在の東京都のうち、三多摩地方を除いたイメージに近い範囲が、このとき「東京」になったそうです。

地方自治

江戸の市政は、老中配下の「町奉行」が担当していました。 町人の自治組織の頂点には「町年寄」がいて、樽屋、奈良屋、喜多村の3家が代々世襲。 町年寄の下にはそれを補佐する、地主を兼ねた「町名主」がいました。

新たに導入された「大区小区制」は、従来の郡町村を廃し、大区とその下に小区を定めて、 上位組織である府県が大区の長である「区長」と区の長である「戸長」を任命するもの。 従来の慣習を一切考慮しないこの制度は、住民の反発にあい上手く機能しなかったようです。

明治11(1878)年、「郡区町村編制法」が施行され、郡町村が復活。人口密集地に郡から分けて区を設置。 東京・京都・大阪には複数の区が置かれました。 官選の郡長・区長が配され、郡の下の町村には民選の戸長が置かれました。 戸長は、1町村に1人ないし、2~3町村に1人いたそうです。

東京府には15区6郡が定められ、江東区エリアはおよそ先の第六大区の部分が深川区になり、 第十一大区の部分が南葛飾郡の一部となって、「平井新田」は南葛飾郡に属しました。

明治22(1889)年、東京市成立とともに深川区に編入

この年、市制・町村制が施行され、東京市が成立。 東京は明治11年に定められた15区の範囲が市となりました(地方都市は、区が市に移行)。 15区は市の内部団体という位置づけになります。 町村は、1町村、300戸~500戸以上を標準単位とする大合併が行われ、 このとき、江東区の横十間川以西の区域が、南葛飾郡から深川区に編入。 「平井新田」は、現在の東陽2-5丁目が深川区に編入され、 南砂2丁目、新砂1丁目部分が南葛飾郡の砂村に編入されました。

曽祖父がいつから東陽町に住みはじめたかは知りませんが、 場所的には深川区に編入されたところになるので、 以後、深川区のほうを追跡していきます。

明治22年は大日本帝国憲法発布の年。 従来の区町村会法では、選挙の方法については区町村で定めるものとされていたところ、 市制・町村制によって、「満25歳以上の男子で租税云々・・」という選挙権が定められました。
町村長は、町村会における選挙で決め、市長は市会が推薦する3名の候補者から内務大臣が天皇に上奏して裁可を請うとされましたが、 東京・京都・大阪の3市については、特例によって市長は置かれず、内務省が任命する府知事がその職務を行うこととなりました。
※明治31(1898)年特例廃止、大正15(1926)年、市長は市会の選挙で決定と改正

明治24(1891)年、東京府東京市深川区深川西平井町が起立

東京市では、2年前の市制施行の際に編入された各地域の町名が、 そのままになっていましたが、このときに再編が行われました。

深川区に編入された部分の平井新田、石小田新田と元々深川区だった深川豊住町(旧・深川六万坪町)のエリアをあわせて、 北側の旧六万坪のエリアが深川豊住町、南側の西エリアが深川西平井町、 東エリアが深川東平井町となりました。

明治40年の「東京市深川区全図」を見ると、深川東平井町のほとんどは養魚場、深川西平井町の東半分も養魚場です。

曽祖父が住み始めた場所は、深川西平井町のエリアになるので、以後は深川西平井町を追っていきます。

明治44(1911)年、東京府東京市深川区西平井町

東京市内で、町名の簡素化が行われました。 区名と同じ深川を冠称する町名について、冠称が廃されることになり、 深川西平井町も西平井町になりました。

明治生まれの祖父はこの町で生まれたみたいなので、曽祖父はこの頃には住み始めていたはず。

昭和7(1932)年、東京府東京市深川区東陽町が誕生

大正時代に発生した関東大震災からの帝都復興計画の一環で、深川区内の区画整理が行われました。 昭和7-9年にかけて、西平井町は、平井町一丁目~三丁目、東陽町一丁目~三丁目、加崎町となり、 西平井町は消滅します。

なお、昭和7年は、東京市と隣接する5郡82か町村が東京市に合併された年で、 このとき、城東地域の南葛飾郡亀戸町、大島町、砂町が合わさり、城東区が誕生。 東京は35区になりました。

曽祖父の住んだ場所は、当時の東陽町のエリアになるので、以後は東陽町を追っていきます。

東陽小学校

東陽町の名前は、明治33年、深川西平井町に開校した東陽小学校 からきているようですが、元となった東陽小学校の命名の由来はわからないそうです。
写真は現在の東陽小学校。昭和11年の「深川区詳細図」では現在地にありますが、 明治40年の「東京市深川区全図」では現在地より少し西にあり、この間に場所を移しています。

東陽小学校

永代通り

当時の東陽町二丁目(現在の東陽3丁目)から西方向みた現在の写真。 このあたり、洲崎橋交差点から東側は明治40年の地図にはなく、それ以降に延伸されています。 左の一番手前の建物は都営団地ですが、昭和17年から43年にかけてあった都バスの洲崎営業所の跡地に建てられたもの。 昭和初期から47年11月までは、都電もここを走っていました。

永代通り

昭和18(1943)年、東京都深川区東陽町

東京府の範囲に東京都を設置する東京都制が施行され、東京府・東京市は廃止されました。 これは、戦時法制のひとつで、東京都の長は、官選による東京都長官になりました。 また、区長についても、東京都長官によって公務員から選任されることになりました。 (戦後の法改正により、東京都長官は昭和21年に公選区長は紆余曲折を経て、昭和50年に公選になりました。)

昭和22(1947)年、東京都江東区深川東陽町

戦後、東京35区は22区に再編(すぐのち練馬区が板橋区から分離し23区になる)。 深川区は城東区と合併し、江東区が成立しました。 このとき、深川区の町名には冠称が復活し、東陽町は深川東陽町となりました。

洲崎遊郭への入口

少し話は戻りますが、明治21年に平井新田の南の湿地が整備されて「洲崎弁天町」(現在の東陽1丁目)となり、 それまで根津にあった遊郭がここに移転してきました。 東京大学の校舎が本郷に建てられることになり、 根津にこんなものがあっては学生の勉強の妨げになるというのが移転の理由だそうです(笑)。
以来約70年、昭和33年に廃止されるまでの間、最盛期には吉原を凌ぐほどの大歓楽街だったそうです。 いまはまったく面影がありませんが、こうしたものはなくなるときはぱっと消えてしまうのでしょうね。

写真は、洲崎遊郭への玄関口だった「洲崎橋」の現在の写真。 川は埋め立てられて緑道公園になり、橋も撤去されています。 戦後の隆盛時、ここに「洲崎パラダイス」と書かれた派手な門があったというのだから、 子供の頃、近所に住んでいた自分としては本当に驚きです。

洲崎橋

昭和42(1967)年、東京都江東区東陽に再編

住居表示実施。深川洲崎弁天町、深川加崎町、深川東陽町、深川平井町、深川豊住町があわさり、 東陽一丁目~七丁目に再編され、現在に至ります。

住居表示制度とは、一定の基準により建物に順序よく番号をつけて住所とするもの。
明治以降、住所の表記は、○○町△番地というように、土地に振られた番号である「地番」が用いられてきました。 しかし、市街化が進むにつれ、地番に多数の家屋が建ち、郵便物の配達などに支障が出てきたことから、 昭和37年に「市街地」について、地番とは別に、市町村が○○町▲番×号というかたちで住居表示を定め、 これを用いるよう法律が制定されたそうです。なお、市街地の基準は、市町村に任されているとのこと。
地番の△番地と住居表示の▲番は別物で、住居表示が実施された地域についても、地番がなくなったわけではありません。

こうしてみると、世の中的にも、昭和40年代前半ぐらいまでが結構激動で、それ以降はあまり変わらずに来ている印象。 高度経済成長期というのが、昭和29(1954)年から昭和48(1973)年というから、大体そんなものでしょうか。

関連記事