11月の三連休初日に登城。浜松なら4時間ぐらいで着くだろうと思って朝9時に家を出たら、
東名の工事と事故の渋滞で着いたのは午後3時。6時間もかかりました(汗)。
事故は仕方ないとしても、三連休中に工事は勘弁してほしいです。。
ようやくたどり着いた「浜松城公園駐車場」(無料)も満車でした。
出る車もあって意外と早く入れたのですが、案内がなく後からどんどん車が入ってくるので中で立ち往生。
たまらず、すぐ近くの「浜松市役所本庁舎駐車場」をナビで見つけて移動したら、こちらは拍子抜けするほどガラガラでした。
有料でも最大料金は500円。移動のときに城の外周をまわり、城全体のイメージをつかむこともできたので、
早めにこちらに切り替えてよかったです。
下の写真は着いたときのものですが、もうなんとなく日が傾きはじめています。。
浜松城【遠江国】訪問記(2019年11月2日)
浜松城の前身は、今川氏配下の武将の居城だった「引間城(ひくまじょう)」。
1569年に遠江全域を支配下に治めた徳川家康は、その翌年、本拠を三河の岡崎城からこちらに移しました。
すぐに区域の拡張を行い、本丸の場所も変えて、名を浜松城とあらためました。
1586年に駿府城に移るまで、家康は17年間をこの城で過ごします。
年齢的には29歳から45歳までの頃で、武田氏との激しい争いをくぐり抜けながら力を蓄えていった時期でした。
家康が駿府に移ってからの4年間は、徳川家臣の「菅沼定政」が城代として城を守りました。
1590年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されると、秀吉家臣の堀尾吉晴が入城。
吉晴は秀吉からの信頼が厚く、12万石の所領を与えられました。
浜松城は、野面積みの石垣と大きな天守台が特徴のお城ですが、
これは、堀尾吉晴の時代に築かれたものと考えられています。
秀吉が亡くなると、吉晴は家康と反家康派との仲介に尽力。
そうした功績もあり、1601年には、家康の命で、家督を譲っていた子・忠氏とともに出雲の月山富田城に移ります。
堀尾氏はここで24万石の国持大名となり、吉晴は松江城(現存)を築きますが、孫・忠晴の代で無嗣断絶となりました。
浜松城には、代わって美濃金山城から家康の甥にあたる松平忠頼が入り、
5万石で浜松藩を立藩。城は藩庁となりました。
以後、徳川譜代の家臣が藩主を務めますが定着せず、明治維新までに9家22代が入れ替わりました。
有名なのは天保の改革の水野忠邦。
忠邦は、家康にあやかり自ら進んで浜松城主になったといわれていますが、
改革に失敗し、1845年に強制隠居させられ、跡を継いだ子・忠精(ただきよ)は出羽山形藩に転封。
左遷されてしまいました。
最後の藩主は井上正直。1868年、徳川家が新政府により江戸から駿河遠江70万石に移されたことで、
井上家は上総鶴舞藩に移され、浜松藩は廃藩、城も廃城になりました。
江戸時代以降は二の丸御殿が政務の中心となり、
歴代藩主によって、三の丸の拡張や大手門の整備がされていきました。
比較的規模の大きな城でしたが、明治に破壊され、
現在は天守曲輪とその下の本丸の一部が残るのみとなっています。
城下には、東海道最大規模の宿場「浜松宿」がありました。
天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒あったそうです。
本陣は大名・旗本などが泊まる宿、旅籠は一般の武士や庶民が泊まる宿のこと。
これらも、太平洋戦争の空襲で焼かれて、遺構はほとんど残ってないそうです。
鉄門(くろがねもん)跡周辺
本丸への正面出入口に相当する「鉄門」脇の石垣。 2014年の発掘調査で新たに発見されたものだそう。石の色や形がかなり特徴的。
「鉄門跡」横にある説明板。古地図と現在の場所を見比べてみます。
実際に門があった場所は、下の写真のあたりとのこと。
南から北を見ているイメージ。
右斜め前に見える軽自動車の先が二の丸で、さらにその先に三の丸がありました。
今は、前の道をまっすぐ行ったところに満車だった「浜松城公園駐車場」、
軽自動車のところを右に曲がった先に、「浜松市役所本庁舎駐車場」があります。
左の石垣の上に本丸、さらにその上に天守曲輪があります。
浜松城公園案内図
上の写真にもちらっと見えている、現在の「公園案内図」を見てみます。
上の写真の左側、石垣の上に本丸と先程説明しましたが、
先の鉄門の位置から考えると、今いる場所も本丸だったことになるでしょうか。
はっきりわかりませんでしたが、本丸はだいぶ改変されてしまっているようです。
ともかく本丸跡に行って見ましょう。右の坂道を進みます。
本丸跡
家康公像
本丸の北端「富士見櫓跡」から見た天守と天守門
家康公像の後ろの石垣をあがったところが富士見櫓跡です。
「富士見櫓」跡から東の眺望。 正面に見えるブルーシートの空き地あたりが二の丸だったところ。 江戸時代の政務の中心は二の丸で、そこには御殿があったそうです。その先のビルが立ち並んでいるところが三の丸。
天守門
江戸時代にあった天守門は、明治6年に取り壊されましたが、 2014年に、市の市政100周年記念事業により復元されたそう。天守門の両脇には鏡石が置かれています。
天守門を内側から。門の上の櫓のなかにも入ることができたのですが、 気づいた時には閉館の時間でした。やはりもう少し早く着いていれば。。
天守
これは昭和33年に作られた模擬天守。17世紀はじめの絵図には既に天守台しか描かれてないことから、
実存していたのはごく短い期間であり、それがどのような天守だったかはわからないそうです。
天守台の大きさからすると、模擬天守はかなり小ぶりです。
予算の都合でこれ以上大きくできなかったのだとか。
現在の時刻は4時。4時30分に閉館なので、先に入っておかないといけません。入場料は200円。
続100名城スタンプもこのなかにあります。
最上階のようす。
南の眺望。浜松駅の方向。下に見えるのは天守曲輪。
東の眺望。天候の良いときには左に富士山が見えるそう。 下には本丸の家康公像と富士見櫓跡が見えます。
北の眺望。家康が武田信玄に大敗した「三方ヶ原の戦い(1573)」の三方ヶ原がある方向。 ちなみに、家康が敗戦後に描かせたといわれる有名な「しかみ像」は近年、 江戸後期に描かれたものであることがわかってきたそうです。
西はあまり眺望がよくなかったので下のほうを覗いてみました。 右の石垣は天守台より高く作られた八幡台。城を護る神社が祀られていたところのようです。 左には天守曲輪の埋門跡が見えました。
ジオラマ模型。江戸時代後期、天保年間(1830-1843)の頃の城と城下町の様子です。上が東の方角。
天守地階の井戸。埋められていて水はありませんでした。 ちなみに浜松城内に井戸は6つ、清水の噴出する清水場が2つあったそうです。
天守曲輪
日没との競争になってきました。。
こちらからみると模擬天守が天守台に比べてだいぶ小さいことがわかります。
稲荷神社。
天守曲輪の井戸。
天守曲輪を出て、天守門を別角度から。
このあと、城の痕跡を探して天守曲輪の外周を歩いてみたのですが、特別なものは見つけられず。 まわりもすっかり暗くなってしまいました。 城の北側は、現在庭園になっていますが、昔は天然の堀の役目をしていた湿地帯でした。
二の丸の位置から
最後に市役所本庁舎の駐車場から天守と天守門を撮って探索終了。
浜松城公園は広い公園ですが、城の遺構はごく一部しか残されておらず、昔の姿がイメージしづらかったです。
浜松は、スズキ、ホンダ、ヤマハという有名な企業を生んだ町で、人口も静岡県で一番多いのだそうです。
城にとどまらず町全体を楽しめればよかったのですが、その余裕もなかったので少々モヤモヤ感が残りました。
また行きたいです。
帰りは家まで3時間で到着。行きもこのくらいで来られていたらよかったんですけどね。。