古宮城は、三河進出を目論む武田信玄が徳川領に打ち込んだ前線の城です。 城は長篠城の北西に位置し、南に下れば東三河のおさえである野田城、 西に進めば西三河の最重要拠点の岡崎城に達する交通の要衝に築かれました。
作手歴史民俗資料館
はじめにスタンプ設置場所でもある「作手(つくで)歴史民俗資料館」に立ち寄り、城の縄張り図をもらいました。新東名の新城ICを下りてから、2つぐらい山を越えて約40分。東京江東区の自宅からは渋滞無しで3時間30分で到着。
城はまだ発掘調査が行われてなく、現地には説明板の類が何もありません。
縄張図があるのとないのでは大違いです。
資料館内に展示されている模型も大いに参考になりました。
意外と言っては失礼ですが、他の展示も充実していました。 「三河」の国名の由来とか、興味深く読みました。
下段の作手村の歴史がおもしろかったです。
武田信玄は、1568年、今川領の駿河へ侵攻するにあたり、徳川家康と駿河国を武田領、遠江国を徳川領とする密約を交わしていましたが、家臣の秋山虎繁が遠江に侵攻し、以降、両者は敵対する関係となりました。
古宮城は、1571年に信玄が三河進出に向けて家臣の馬場信春に築かせた城。
家康の息子、信康が守る岡崎城を攻撃する拠点であるほか、
西三河と東三河、また家康が居城する遠江の浜松城を分断しようする武田氏の戦略を具現化した城で、
そこには武田氏が蓄積した築城術が惜しみなく投入されています。
城郭考古学者の千田嘉博先生曰く、信玄の最高傑作の城。
南北200m、東西260m、比高差25mの丘陵を惣構えと呼ばれる堀と土塁ですべて囲い、
その全域を城としました。
中央部には、城を東西に分断する巨大な空堀を設け、西側は守りの前衛空間に、
東側は本丸などを置いた中心空間に機能分けをしています。
1571年末、北条氏康の死をきっかけに駿河侵攻以来決裂していた後北条氏と和睦が成立すると、
武田信玄は、翌元亀3年(1572)10月、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で、
進軍を開始しました(西上作戦)。
信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康に大打撃を与え、
翌年2月、東三河の野田城の戦いも勝利しますが、その後病状が悪化し、
急遽武田軍は甲斐に撤退します。
この地を治めていた国人領主、奥平定能(さだよし)は、
元々は今川、その後徳川に属していましたが、1570年頃より武田氏の圧力によって武田に属するようになっていました。しかし、このとき信玄の死を確信して、徳川方に再属。
すると定能の子、信昌は対武田の最前線である長篠城に配されました。
1575年、信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城を包囲。長篠の戦いが始まると、
奥平信昌は僅か500の兵で城を守りきり、設楽原の戦いにおける織田・徳川連合軍大勝の起因となりました。
古宮城については、定かな資料はありませんが、1573年から1575年にかけての間に、
奥平・徳川連合軍により攻められて、落城、廃城になったと考えられています。
作手奥平氏
奥平信昌の正室は家康の長女、亀姫。 信昌は、長篠の戦い以降も活躍を続け、関ヶ原の戦い後は美濃加納藩10万石の藩主になりました。
古宮城【三河国】(2020年2月1日)
先に感想を書いてしまうと「続100名城に選んでくれて、その存在を自分に教えてくれてありがとう」と思えた城でした。公園的な整備がされておらず、現地に説明が何もないのは不便ですが、 それがかえって本当に昔の人が作ったものであることを感じられました。 勝手かもしれませんが、人が押し寄せて踏み荒らされてしまうのは残念なので、 あまり人気にならないでいてほしいです。
全景
正面に見える鳥居から左半分が西城、右半分が東城。
鳥居の左のほうに車が3台ぐらい止められるスペースがあります。
城のあった頃、周辺は湿地帯で、陸続きだったのは西側の一部だけでした。
白鳥神社
神社の鳥居をくぐり、左の階段を上がって、城域に入っていきます。
東城
東城への入口。左側に見える盛り上がっているところが枡形で、その切れ目が虎口です。
枡形虎口。
枡形内部から曲輪側虎口を見たところ。
枡形内部からみた左側の壁面。明らかに人が作ったものであることがわかります。
東二の丸。奥に見える土塁によって東本丸と仕切られています。 武田の城によく見られる作りだそうです。
東本丸。城の中で一番高いところにある平坦地で、最も大事だった場所。
東本丸から枡形のほうを見たところ。
中央のくぼみは、東本丸から見た北大竪堀。折れ曲がりながら麓まで続いています。 向こうに並行して見えるのは西三の丸。
西城
東本丸から見た西城。土塁に囲まれた西二の丸が見えています。その奥に西本丸があります。
西城と東城を結ぶ土橋上から南側の大竪堀。
西城と東城を結ぶ土橋上から北側の大竪堀。先が折れ曲がっています。
西三の丸から西本丸のほうを見たところ。本丸は高い土塁に囲まれ、その下には太い横堀が走っています。
西本丸。太い土塁で囲まれた様子は、写真では伝えきれない迫力がありました。
西本丸を囲う土塁の上を歩いて回って南東側から。
西城と東城を結ぶ土橋上から東城への入口である枡形を見たところ。
西本丸下の横堀と西南曲輪。
大手虎口(西虎口)?、城があった当時、唯一の入口だったところ。