二荒山神社から南に850mの場所にある宇都宮城。 9年前に二荒山神社に参拝したときはその存在を知らずに素通りしてしまいましたが、 100名城をまわるようになり、城に興味を持つようになった今回は、 100名城ではないこの城にも立ち寄ってきました。
日光社参の宿城
江戸時代には宇都宮藩の藩庁が置かれ、徳川将軍家の日光社参の際には将軍が宿泊した城。残念ながら戊辰戦争の戦火で当時の城の遺構はほぼありませんが、いろいろなエピソードが残る城です。
※写真は復元された本丸北西の土塁と清明台(櫓)
二荒山神社社務・宇都宮氏
平安時代、二荒山神社の祭祀と神領の支配権を手に入れた宇都宮氏が築いた館がはじまり。 宇都宮氏はここを居城にして、戦国時代初期には北関東最大の勢力となりました。
秀吉の宇都宮仕置
1590年、豊臣秀吉は小田原で後北条氏を破った後、宇都宮城に移動して、
ここで関東・東北の諸大名と謁見し、諸大名の配置を決める「宇都宮仕置」を行いました。
秀吉はこのとき二荒山神社にも参拝しています。かつて源頼朝が奥州征伐の際に、
二荒山神社に戦勝祈願と戦勝のお礼に二度立ち寄ったことを意識してのことでした。
宇都宮国綱は所領を安堵され、後北条氏の侵攻を防ぐため宇都宮西部の多気山城に移していた居城も
宇都宮城に戻すよう命じられました。しかし、1597年に突如改易され、宇都宮氏による支配は終わります。
改易の原因は不明。(関ヶ原後に国綱の子の義綱が水戸藩家臣となり、子孫は明治維新まで水戸藩に仕えました)
関ヶ原の戦いと宇都宮城
その半年後、蒲生秀行が会津92万石から18万石に減封され、宇都宮城に入城しました。 関ヶ原戦いが起こると、秀行は家康の次男・結城秀康とともに宇都宮城で上杉景勝を牽制。 戦後はその功によって会津に復帰しました。
奥平氏と加納の方(亀姫)、秀忠の日光社参
1601年、宇都宮城は、家康の外孫にあたる奥平家昌に与えられました。宇都宮藩が10万石で立藩します。 1614年に家昌が病死すると、子の忠昌が7歳で家督を相続。祖母にあたる家康の娘、加納の方(亀姫)が後見人となります。 1617年、2代将軍・徳川秀忠が初めての日光社参で宇都宮城に宿泊しました。
本多正純の入封と改易(釣天井事件)
1619年、奥平忠昌は幼少という理由で下総古河に転封し、代わって本多正純が15万石で入封しました。
正純の頃の整備によって、現在の宇都宮市中心部の骨格が造られたといわれます。
ところが、1622年に突如、将軍暗殺などの嫌疑(釣天井事件)をかけられ、改易されてしまいました。
この事件は数々の歌舞伎やドラマの題材となり、
ひと昔前まで宇都宮といえば餃子より釣天井というほど有名だったそうです。
文治派の正純は、家康の存命中は、父・正信とともに厚い信頼を受けていましたが、
1616年に家康、正信が相次いで亡くなると、次第に幕僚から疎まれるようになったといいます。
1614年に武断派の小田原藩主、大久保忠隣(ただちか)が突如改易された際の黒幕という説があり、
今度の事件の黒幕は、前宇都宮藩主の後見人で、娘が忠隣の子・忠常に嫁いでいた「加納の方」
とも言われるようですが、真相はわかりません。
宇都宮戦争
正純の改易後、奥平忠昌が復帰しますが、その後も藩主家は変わっていきました。
1787年以降は戸田家が定着し、明治維新を迎えます。
宇都宮藩は、戊辰戦争で新政府方につき、宇都宮城を舞台に旧幕府軍と戦いました。
一時、城を旧幕府軍に明け渡しますが奪還。ただ、このときの戦火により、
城をはじめ、二荒山神社など、宇都宮城下の主な建築物は焼失してしまいました。
訪問日:2020年9月12日(土)
以下は江戸時代の絵図で、写真中央の上端のところが二荒山神社です。 城は堀で何重にも囲まれ、真ん中の一番小さいところが本丸です。 本丸には将軍が宿泊するときだけ使用する御殿しかありませんでした。 本丸の外周、二の丸、三の丸のところをよく見ると城主住居と書いてあります。
こちらが本丸の図。さて、現在復元されているところはというと、西側の土塁と2つの櫓だけ。 しかも、土塁はコンクリート造りで、内部は災害時の備蓄品を置く倉庫になっています。
それがこちら↓です。むぅ。
南西角の富士見櫓。
北西角の土塁上から本丸の中を見たところ。手前側、三分の一の空間は城址公園の広場ですが、 奥の三分の二は住宅地でビルも建っています。
北西角の清明台から真北の方向。手前下には復元の堀。
本丸に入る門は北と南に2ヶ所でした。北側の清水門があったあたりを外側から。将軍が宿泊するときに通った門です。道にある線が門のあった場所を示しているようなのですが、どうなっているのかよくわかりませんでした。。