標高197.3m、通称「城山」に築かれた佐柿国吉城は、 織田信長が、のちに金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)に繋がる越前朝倉攻めにあたって滞在したことで有名な城です。 信長だけでなく秀吉、家康の三英傑がそろい踏みした城。今年はそれからちょうど450年目にあたるそうです。
若狭国の東端に位置する越前国との境目の城
築城は1556年、若狭守護・武田氏(居城は小浜・後瀬山城)の重臣、粟屋勝久によると伝えられています。
1556年は、当主・武田信豊と嫡男・義統(よしずみ)の間で家督争いが起こった年。争いは義統が勝ち、信豊方に付いていた勝久は武田家から追放されますが、その後も佐柿国吉城で抵抗を続けました。
義統は反乱の鎮圧に越前朝倉氏の支援を仰ぎ、佐柿国吉城は朝倉氏の侵攻を何度も受けます。しかし、勝久はこれを悉く打ち破り、勝久の武名と難攻不落の城として佐柿国吉城の名は広く知れ渡りました。
ちなみに武田義統の母は六角定頼の娘で、母の姪が朝倉義景の正室。義統の妻は将軍・足利義輝、義昭兄弟の妹でした。
1567年に義統が急死すると、1568年、朝倉氏は義統の子・元明を越前一乗谷に連れていき、若狭国は事実上朝倉氏の支配下に置かれます。が、それでも勝久は抵抗を続けます。1570年、そこに信長が入城。勝久は信長に従い、朝倉氏と戦いました。
1573年、朝倉氏は滅亡。勝久は信長から国吉城を安堵され、以後、信長の天下統一に向けて、丹羽長秀の与力(若狭衆)として各地を転戦します。
本能寺の変後、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、丹羽長秀は秀吉方に付きました。
この頃、国吉城は柴田勢の侵攻に備えて石垣の城へと改修が行われたようです。
賤ヶ岳の戦い後、新たに国吉城の城主となった秀吉家臣の木村常陸介定光によって、城の修築が行われ、城下町も整備されました。
1587年、秀吉の九州平定後、浅野長政が若狭国主に任命され、その家臣が代わる代わる城代となり、1600年、関が原の戦い後、徳川家康から若狭国主に任命された京極高次の家老、多賀越中守良利が城代となり、城の改修を行いました。
1634年、京極家に代わって、徳川譜代の家臣、酒井忠勝が小浜藩に入封すると、
国吉城は破却され、その石垣を再利用して、城山の山麓に佐柿町奉行所が造られました。
訪問日:2020年9月19日(土)
では散策していきましょう。まずは駐車場にあった散策絵図を確認。 見どころは山麓の城主居館跡と山上の曲輪群です。
佐柿町奉行所跡に建てられた若狭国吉城歴史資料館
正面に見えるのが山麓の居館跡
居館跡最下段石垣
居館跡中段石垣。 傍にあった説明板は、いろいろ細かく書いてありましたが、 どこのことを指しているのかよくわからずでした。。
ここが説明板による三段目という場所のようです。見つかった礎石から居館の中心的な建物があったと考えられるとのこと。
それでは山上へ。柵扉を開けて中に入ります。熊出没注意(汗)。
登ってきた道を振り返ったところ。これがなかなかの急坂でした。
伝二の丸(出丸)
登りはじめて約7分で到着。 曲輪の左手、山麓側に土塁。中央に喰違虎口があります。
虎口の奧の様子。
山上の曲輪群
本丸下帯曲輪。柵扉から約20分ですが、やっと着いたという感じでした。
本丸北側堀切。両側に石垣が築かれています。
まずは本丸の反対側、連続する曲輪群へ。先に見えるのがII郭。
北北東の方向、素晴らしい眺望でした。
この下に曲輪が4段(III~VI郭)続きます。
上からだとよくわかりませんが、III郭に下りて振り返ると、 正面に見えるこんもりとした土塁の上がさっき立っていたII郭。 これだけの段差があります。
III郭の虎口を出て次のIV郭へ。
IV郭からIII郭を見たところ。
その先のV郭。
V郭からIV郭を見たところ。これだけはっきりした段差が続く曲輪群に興奮。
最後のVI郭。
元の道を戻り本丸へ。右手の上を登ったところが本丸です。
最後の急登。
本丸北西虎口。
本丸からの眺望(美浜方向)。
本丸南側土塁。
本丸南側土塁上から本丸全景。
本丸南側土塁下の堀切。
本丸東虎口を外側から。
準藩士屋敷跡の石垣
朝、駐車場から佐柿国吉城に向かう途中にあったもの。 幕末、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため建てられた屋敷跡。 草ぼうぼうですが、石垣は当時のものとのこと。幕末だと150年前なのでついこないだの感覚。
気持ちよく散策できていい城でした。(10:00-12:50)