福井に来たのは、続100名城の福井城を見るためですが、 福井城を見るなら是非訪れたい場所ということで、先に柴田神社に立ち寄りました。 ここは柴田勝家が築いた北ノ庄城の本丸があったところといわれています。
1575年、信長は越前一向一揆を滅ぼすと、越前の大部分を家臣の柴田勝家に与えました。
勝家は、かつて越前を支配した朝倉氏の一乗谷を拠点とせず、ここに新たな城を築き本拠としました。
安土城に匹敵する巨大城郭だったそうです。
勝家が何もなかったこの場所に城を築いたのは、ここが足羽川と吉野川の合流点で、
北陸街道も押さえる水運・陸運の要と見たから。城下の経済的発展が大いに望めると考えたためだそうです。
1580年、加賀一向一揆を攻め落とした後には、甥の佐久間盛政を尾山御坊に入れて金沢城を整備させています。
福井だけでなく金沢の発展の基礎を築いた勝家は、猛将というイメージにとどまらず、都市計画の才能にも溢れていました。
1583年、ポスト信長の座をめぐり羽柴秀吉と激突した「賤ヶ岳の戦い」で敗れ、 妻である信長の妹・お市の方とともに北ノ庄城で自害。このとき、城のほぼすべての建造物が消失しました。
柴田勝家、お市の方 辞世の句
賤ヶ岳の戦いは、柴田方についていた前田利家の戦線離脱により、大勢が決したといわれています。 勝家は、北庄城で自害するまでの間に一度利家と面会しますが、 このとき利家に対して一切恨み言を述べなかった、という逸話が残っています。
関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男・結城秀康は、越前国を与えられ、
北ノ庄城の跡地にこれを拡張して福井城を築きました。
北ノ庄城の本丸跡は、福井城の南端に相当します。福井城・日向門の礎石が見つかった位置が標示されています。
絵図に丸をつけたところが、福井城の日向門です。
神社拝殿下に見える石垣は、福井城の遺構。
北ノ庄城時代の遺構も僅かに残っています。 ただ、この石がどういう部分に相当するかは、説明文を読んでも想像できませんでした。。
神社はいつの頃からか、ここに勝家とお市の方を祀る石祠が建てられて保護されてきたものが、 明治6年に神社格に列せられたのがはじまり。鳥居の奥に見えているのは境内社の稲荷神社です。
平成10年、社殿の建て替えとともに、お市の娘・浅井三姉妹を祀る境内社・三姉妹神社が新たに創建されました。
三姉妹の像。奥の像はお市の方です。
正面に見える建物が柴田神社の拝殿です。
御朱印をいただきました。
お土産に「瓶割りせんべい」を購入。勝家には「瓶割り柴田」という異名があります。
1570年、信長の越前侵攻の最中、同盟関係にあった浅井長政が離反すると、 信長の上洛戦に敗れていた南近江の六角義賢が琵琶湖南岸に再進出してきました。 勝家は長光寺城の守備を任されますが、1000の兵に対して8000の兵で包囲されます。 敵方に水源も断たれ、絶望的な状況に陥ったとき、 勝家は水を貯めていた甕を叩き割り、兵に決死の覚悟を示しました。 背水の陣で挑んだ勝家軍は六角氏の軍勢を撃退。この逸話が「瓶割り柴田」の異名となりました。